■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2002年 9月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル
■ファイル3  新石川(前編)
鎌倉街道へ
 国道246号の荏田の交差点から、新石川、あざみ野方面に抜ける道を地元では「釈迦道(しゃかんどう)」と呼んでいる。途中、東名高速のガードをくぐる手前に(登戸まで9キロ)の標識が眼に入る。こんな所で(登戸?)と疑問に思った方も多いのではないだろうか。しかし、この道は複雑なルートを通って登戸に行き着く。いわゆる「県道横浜生田線」で、美しが丘とあざみ野の間を流れる早淵川に沿って進み北部市場を抜けて川崎に入る。その先で府中街道とぶつかり武蔵国府のあった府中までつながっていて、関東の武士たちが「いざ鎌倉」と馳せ参じるための「鎌倉街道」であったとも言われている。鎌倉幕府の有力御家人「稲毛三郎」がこの道を通って鎌倉に向かったと言う伝承がある。

 近世、「しゃかんどう」は荏田村から石川村を結ぶ主要道として住民にとって極めて貴重な生活道であった。

都筑郡石川村
「石川村?ああ元石川のことですか。まてよ、新石川もあるな」とマスターがつぶやく。
「いや、石川村と言うのはもっと広い地域のことです。元石川、新石川だけでなく、美しが丘、あざみ野、荏子田、美しが丘西、すすき野まで入ります」
「へぇ〜、じゃあここ(あざみ野)も石川村なんですね」
「そうです。早淵川を中心に両サイドに広がった地域で、明治まで都筑郡石川村と呼ばれていたんです」「石川も単に石がゴロゴロしていた川なんて言うんではなく、何か別の語源と言うか意味があるんでしょう」

「いや、単に石がゴロゴロみたいですね」
「・・・はぁ〜」
「この辺りは山あいを流れる早淵川の上流で、川底の岩が石のように見えるほど澄み切った川だったらしいです」
「そんなもんですか・・・でも何かないんですか?石川五右衛門はここの出身とか」
「な、わけないでしょう。しかも泥棒だし・・・」
 明治二十一年、大規模な町村合併が行われ、石川村は隣の荏田村と合併、黒須田村の飛び地を加えて「神奈川県都筑郡山内村」となった。

 昭和十四年横浜市の市域拡張計画の際、「山内村」は港北区に編入され、「港北区元石川町」と再び名前を変え、古代から続いた「都筑」と言う名も消滅した。

「その時、市ヶ尾村や荏田村などがそのまま町になったのに石川村は石川町にはなれなかったんです」
「どうしてですか?」
「中区に既に石川町が存在したからなんです」
「元町や中華街のある石川町ですね。しかし、元は石川で今は元石川って言うのもなんだなぁ!新までつくと意味が分からなくなっちゃいますね」

 昭和四十年代、田園都市線が開通し人口が増加すると、港北区から緑区となり、あざみ野や美しが丘と言った新しい町名が次々と誕生した。現在の青葉区に分区したのは平成六年、今から八年前のことである。そして同時に「都筑」も区名として復活した。

「あざみ野や美しが丘じゃ地名から歴史を探るのも難しくなりますね」
「まったく、困ったものです」
「何が困ったものですか。人前で(青葉区美しが丘)って住所を書くとき、いい名前だろうってチョッと嬉しくなるって言っていませんでした?」
「アハハハ、まったく困ったもんです」

石川村水没!
「それより、石川村には八つの集落があってそれぞれの名前の由来が面白いんですよ」
「話を逸らしましたね」
「いや、本当なんです。まず早淵川の源流から保木(ほうぎ)、荏子田(えごだ)、平川(ひらかわ)、船頭(せんどう)、それから稗田原(ひえだはら)、牛込(うしごめ)、中村、下谷(しもやと)の八つの地区です」

保木→美しが丘西地区
荏子田→荏子田一〜三丁目
船頭→あざみ野四丁目あたり
稗田原→美しが丘五丁目の北部
牛込→美しが丘五丁目の南部からあざみ野一丁目あたり
中村→あざみ野駅周辺から新石川二丁目
下谷→新石川一丁目あたり


「かつて荏田村と石川村、この隣り合った村は早淵川の水の分配をめぐって大変仲が悪かったそうです」
「水争いですか。川のある土地ではよく有る話です」
「伝説なんですが、荏田村の住民が堤防を築いて上流の石川村を水没させたと言うのです」
「ひぇ〜!まるで秀吉がやった高松城の水攻めですね」
「保木はその時、木に帆を揚げた船を出したから帆木が保木になったと、船頭はわかりますね。
平川は集落一帯が平らな川になったから平川とそれぞれ名前が付いたそうです」
「本当のことですか?」
                              (つづく)宮 澤
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