■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2002年12月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル
■ファイル4  あざみ野(中編)
 賽銭を投げ入れ、拝殿に手を合わせた後、ふと頭上の扁額を見上げる。「驚神社」つくづく変わった名前だ。「驚」が「馬」を「敬う」ことから作られた名称だと以前特集記事に書いた。由緒書きにも、かつてこの一帯にあった「石川の牧」の総鎮守だったとあり、源頼朝の臣、畠山重忠の崇敬が篤かったとも記してある。

(なるほど、畠山重忠か) 鎌倉武士の代表ともいえる畠山重忠は、源平の合戦で有名な鵯越(ひよどりごえ)の際、「こんな坂を馬で下ったら、馬が可哀そうだ」と言って馬を背負って下りたというエピソードを持つほど、馬を愛していた武将である(何と言う怪力!)。

 平安時代に武蔵の国には四つの「勅旨牧」があり、朝廷に優駿を献上していた。この「牧」の存在がのちに、騎馬・馬術に長ける強力な関東の武士団を生み出した原因であることは否めない。その関東武士団が朝廷と対立して鎌倉幕府と言う武士政権をつくったことは歴史の皮肉でもあり面白さではないだろうか。

東京の牛込
 帰路、図書館に寄り東京の牛込について調べてみた。
 東京の住所に「牛込」はない。しかし駅や学校、郵便局など官公庁の名称には残されている。 かつて東京が三十五区だった頃、牛込区は存在しており、昭和二十二年に四谷区、淀橋区と合併して新宿区になった。江戸城の外堀にあった牛込門の石垣が今でも飯田橋駅の横に残っている。この外堀の外側、神楽坂や市ヶ谷など新宿区の東北部一帯が牛込である。

 今から千三百年前、全国に国営の牛馬を育てる「官牧」が置かれ(勅旨牧とは別で諸国牧と言う)、東京には「檜前(ひのくま)馬牧」(浅草)と「浮島の牛牧」(向島)、そして牛込には「神崎牛牧」があったと伝えられている。牛牧は牛の放牧地であり、そこから牛込の名が付いたらしい。豊島区の「駒込」大田区の「馬込」などの地名も同様で、東京の地には多くの馬牧や牛牧があったと思われる。 (やはり、古代の「牧」が関係しているようだ)
(木更津の牛込海岸にも牛牧があったから、牛が多く集められ囲い込んだ牧養地が「牛込」なのだろうか?)
(それにしても、さすが牛乳屋さん。牛の牧場に結びつくとは)

渡来人と馬
 家路についても馬や牧のことが頭から離れない。
 新石川編で東の馬、西は牛だと書いた。これは比率の問題で東に牛が居なかったわけではない。馬牧と牛牧、例えれば関東の蕎麦屋と関西のうどん屋みたいなものか。

 そう言えば、昔浅草などの下町に馬肉を食べさせる店が多くあり、「けとばし屋」と呼んで大変繁盛したと言う。馬を食べる習慣は家の中で馬を飼っている地域にはない。長野や熊本、青森など「馬刺し」が有名な土地には古代から馬牧がり、たぶん放牧という飼育法と関係があるのだろう。

 馬のことを「駒」と言うのは高麗(コマ)からきている。高麗は朝鮮を意味するコウライではなく、六六八年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた三国時代の高句麗(コウクリ。正式にはコグリョ、今の北朝鮮)のことである。高句麗滅亡によって大勢の高句麗人が日本列島に渡来した。なかでも王族である高麗王若光(じゃっこう)の一族が相模の大磯に上陸し、その高度な文明により、相模、武蔵、甲斐、駿河などの未開の荒野を開発していった。 写真 七一六年朝廷は東国の高句麗人千七百九十九人を武蔵一国に移し、高麗郡(埼玉県日高市・飯能市)を置いて、若光を郡司にすえたと『続日本記』には記されている。高麗川や狛江、山梨の巨摩郡は高麗からきた地名であろう。また、飯能はハン・ナラ(韓の国)、相模のサガ(私の家)や武蔵のムサ(麻)も古朝鮮語だと言う説がある。

 駒と言う文字には「馬」と弓を強く引くと言う意味の「句」が使われていて、渡来人が騎馬民族であったことをうかがわせる。彼らは馬を育てるノウハウや製鉄、土木建築など当時のハイテク技術で関東における地盤を築いていったと考えられる。その高麗王の一族を含む渡来人の末裔が後の関東の武士団である。
 石川の牧が置かれたこの土地に彼らはどのように関わっているのだろうか?想像は尽きない。

★ ★ ★

 突然、パッと視界が開けたので我に返るといつの間にか牛込のバス停にさしかかっていた。辺りはすっかり黄昏時である。家具の大正堂とダイオーの脇を蛇行して流れる早淵川がここから県道に挟まれて真っ直ぐ保木まで伸びている。夜空をさえぎる障害物が無いせいか、ここに立つと広々とした星空が広がって何とも気持ちがいい眺めだ。

 この早淵川の両側の住宅地が牛込の集落である。(つづく)
宮 澤(挿画とも)

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