■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2003年 7月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■ファイル6 元石川町(後編)
城山・ジョウヤマ
「ジョウヤマはやっぱり城のことなんですか?」
「たぶん、今までの経験からすると土地の人がジョウヤマと呼んでいるのはほとんどが城山のことで、そこに城跡があることが多いんですよ。しかも堀切まであるとなると・・・」
「東京にも堀切があるけど、あそこも城跡?」
「葛飾区の堀切でしょ。菖蒲園のある。あの近くには鎌倉幕府の御家人で後に奥州に移った葛西氏の城館があったんですよ」
「へー詳しいね。でもジョウヤマとシロヤマはどう違うの?」
「いや。どちらの言い方もあるんですよ。その土地や時代によってシロだったりジョウだったり…ほらっ、鹿児島の薩摩藩の城はシロヤマでしょ。ただ、本来(城)という漢字にはシロという読み方はなかったらしいですよ」
「えーっ!そうなの?」
「一般に(城)をシロと読むようになったのは平安時代の末だと言われていて、それまではジョウとかキだったんです」
「じゃあ、シロはどこから来たの?」
「聖徳太子の息子は知っていますよね?」
「確か山背大兄王(やましろのおおえのおう)だっけ?」
「そうです。山の背と書いてヤマシロですが山尻王と書かれた文献もあるそうです。ヤマシロとは(やましろ)の国、つまり今の京都の地名から付けられたんです。では問題。背中と尻は身体のどこにありますか?」
「はっ?背中と尻は・・・後?」
「ピンポン!正解。山の後、つまりヤマウシロ、ヤマシロです」
「はははっ!マジ?」
「マジですよ。当時の飛鳥、奈良県から見て京都の地は山の向こう、山の後ろでしょ。だから山背(ヤマシロ)の国。その後、奈良から京都に都が遷った時に山背から山城に表記が変わったんです」
「鳴くよウグイス平安京。七九四年だね。でも何故?」
「ときの帝である桓武天皇がヤマシロの国は山に囲まれた天然の要害だからと言うことで山城に表記を改めさせたんです。それにもう山の後ろじゃなくなったしね」
「ふ〜ん。でも読みはそのままになったんだ」
「本来ならヤマキなんだけど、きっとヤマシロが気にいっていたんじゃないかなぁ・・・おっと、そんな事よりその城山の場所はどこなの?」
「いや、だから僕に聞かれても・・・イサムさんに聞いてよ」

さっそく携帯でイサムさんに問い合わせてみる。
「オーッ宮ちゃん!何よ?ジョウヤマ?行った、行った!子供の頃よく行ったよ=っ」
と相変わらず大きな声。
「エッ?どこにあるかって?荏子田だったけ?すすき野だったけかな。だけどもう、影も形も無いよ〜アッハッハ」
(トホホである。そうだよな〜残っていれば城マニアの自分が知らないわけ無いか。何はともあれ、とにかく行ってみるか!)
「じゃ、お兄さん。また今度」
携帯を切り、牛乳ビンをぶら下げたまま唖然としているハリーポッターを尻目に荏子田に向かって歩き出した。
「お〜い!チョッともう話は終わり?まったく!何なんだ〜」

堀切から嶮山そして城山
 地図を見ると、堀切の行き止まりの山を越えれば、すぐ向こうが荏子田、堀切からその先のすすき野まで距離にしたらたったの五百メートル。今はその山に入ることは出来ないので保木(美しが丘西)に出て迂回するしかない。

 途中、偶然にもイサムさんのお兄さんである金子ケイイチさんに出会った。どうやら畑仕事の帰りらしい。
「う〜ん。ジョウヤマか?そうだな〜この辺の景観も変わっちゃったからなぁ、その堀切の山、ちょうど荏子田と元石川の境に沿って峰道がズーット続いていて荏子田からすすき野、すすき野は人家が一戸もなくて険しい山ばかりだったから昔は嶮山って言ったんだけど、そこから黒須田川の上流の城山まで歩いて行けたんだよ」

(やはり、道は繋がっていた)
「川には魚が一杯いてさ。城山から湧き出した清水が黒須田川に注いでいて、長い坂を下ってよく魚を捕りに行ったなぁ」
 最近では汚染が問題になっている黒須田川も三十年前まではウナギやコイの住む清流だったのである。

   現在、城山は宅地開発されて城らしい痕跡は何ひとつ残ってはいない。しかし、規模は分からないがここに城があったという確信は持てた。例の荏田との水争いも単なる農民同士の争いではなく、もしかすると城を拠点にした豪族間の戦(いくさ)だったんじゃないだろうか。

 歩き疲れて腹が減ってきた(元石川に戻って「浜かつ」で定食でも食べようかな。土用には早いが鰻なんていいねぇ)。
 浜かつさんのある辺りは元石川でも船頭と呼ばれている地域である。残念ながら鰻丼が運ばれてきました…じゃなくて紙数が尽きてしまいました。船頭についてはまたの機会に、次回は(美しが丘西編)です。
                                      宮  澤

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