■ひろたりあん通信バックナンバー
 ▼2004年10月号
夢の吹く丘 〜都筑の丘のすばらしき人々〜
■元プロテニスプレイヤー
  神尾 米さん
 

ドーバー海峡に挑戦
 スポーツ万能。そんなイメージを抱くのは私だけではないでしょう。プロテニスプレーヤーなのだから当然なのですが、スポーツなら何でもこなしてしまう運動神経には驚きます。

「そんなことないですよ(笑)運動神経はホント、あんまり良くない方なので、駆けることとかは不得意です・・・。でも、テニスコートの中での足には自信ありますけど」

 何と言っても、5年前のテレビ番組(ウッチャンナンチャンのウリナリ)でのドーバー海峡横断部。イギリス〜フランス間、約34キロのドーバー海峡を6人が交代で、16時間半かけて泳いで渡ると言うもので、バラエティ番組とはいえ、その過酷な挑戦にハラハラドキドキ。泳ぎきった時には感動して目頭が熱くなったのを覚えています。部員中、ただ一人の女性として参加された神尾さん。「よねちゃん」の愛称で、チームで一番頼りにされ、時に涙しながら頑張っているその勇姿は忘れることが出来ません。

「私は半年くらいの参加だったんですけど、お笑いの方たちは2年前から泳ぎ続けていて、皆さんホント真剣に鍛えていましたね。楽しかったですよぉ!」

 水泳は2歳の頃から習っていたそうで、鷺沼のスイミングスクールにお兄さん二人と通っていました。

プロの厳しさ
「テニスを始めたのは確か十歳の時だと思います。母が市ヶ尾のクラブでテニスを習っていたので、一緒について行っていたんです。そこで興味を持ってラケットを握ったのが最初ですね」
その後、藤ヶ丘にあるジュニア育成のためのテニススクールに通い始めました。

「母が、大人ばかりのクラブだと、みんながチヤホヤするので生意気になるって(笑)それで、ちょうど近くに出来た藤ヶ丘の方に行くようになったんです」

 フォームが出来ていない子供は、大人とはプレイさせないと言うくらい厳しいテニスクラブでした。

「その頃テニスと水泳を両方やっていたんですけど、父に人間は一つの事をやり通すことが大事なのだから、どちらか選びなさい≠ニ言われてテニスを選んだんです」

 テニスの道を選んだ神尾さん。高校を卒業後プロに転向。92年の全豪オープンをかわきりに、ウィンブルドン、全米オープンで活躍。95年自己最高世界ランキング24位にまでのぼりつめます。

「中学、高校とずっとテニス漬けだったので、大学に入ったら友達みんなと遊びたいって気持ちはありました。最終的にはプロになることに決めたんですけど、プロって言うのは、全部自分で決めるんです。コーチやトレーナーを雇うのも自分。だから余計に厳しい。休んでも誰も何も言わない。遊びたいと思ったら、時間はいくらでもあるんです」

 そんな厳しいプロの世界で数々の栄冠を勝ち取った神尾さんですが、97年、肩の故障により全日本室内テニス選手権で単複2冠制覇を最後に、惜しまれつつ引退しました。

何事も無く・・・ 
 神尾さんは、小さな時から青葉区に住む正真正銘の浜っ子です。鉄小学校に通っている頃、近くの田んぼで田植えをしたこともあるそうです。ちなみに鉄小学校の校歌はわが廣田新聞の創始者・廣田花崖なのですよ。

「えーっ、そうなんですか。やばい、忘れているかも(笑)」

大丈夫、聞けば思い出します。

「この辺りはずっと山だったんです。兄二人と筍を採りに行ったり、狸に餌づけしたり、富士山もはっきり見えたんですよ。いつも兄に付いて遊んでいたので、メンコとか男の子のする遊びばかりでしたね」

 チャレンジ精神旺盛な神尾さんの精神力と体力は、子供の頃お兄さんたちに鍛えられていたのでした。
 今や、一児の母でもある神尾さん。子供の頃の夢は「お嫁さん」になることだったそうです。

「テニスを始めてから、友達と遊ぶことも出来なくて辛い思いをしたから、尚更ですね。本当だったら、プロになりたい!って思うんでしょうけど・・・。やっぱり母を見ていたからかな。母みたいになりたいって思っていました」

 現在はタレント活動やテレビの解説などのお仕事をされていますが、これからの夢、目標があればお聞かせ下さい。

「とにかく、何事も無く暮らせることですねぇ。最近、物騒な事件やニュースが多いですから。子供が何事も無く、無事に大きくなってくれることが、一番の望みですね」

そう語る神尾さんの横顔はすっかりお母さんになっていました。

 今回はご自宅に訪問してのインタビューとなりましたが、テレビで拝見するよりもずっとスリムで、一歳4ヶ月のお子さんがいるようには思えません。でも、健康的で明るい笑顔と飾らない人柄は画面から受ける印象そのままでした。帰る時には、お子さんと一緒に見えなくなるまで手を振って見送ってくださいました。本当に有難うございました。


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