| ■ひろたりあん通信バックナンバー |
| ▼2005年2月号 |
| 地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」 |
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■番外編 街道を往く 〜鎌倉街道-1〜 「鎌倉街道」は、ここ数年の私の屈託(くったく)である―。 この地名推理を進めて行く過程で時おり「鎌倉街道」の文字を目にする。そのつど気にはなっていたのだが、なんとなくあいまいに見送ってきた。 大山街道とは違い、あちらこちらに断片的に現れる鎌倉道の推定地。どこからどこへつながり、どのようにして鎌倉まで通じていたのか?澱のように胸に溜まった漠然とした疑問を今回解決しようと思い立った。それには実際に歩いてみるに限る。
旅は道づれ あざみ野駅のガードを抜け、早淵川沿いを歩こうと信号待ちをしている時、ばったりと飲み友達の「花屋の岡ちゃん」こと「岡江洋介」に出くわした。
「は〜い!宮澤さん。そんな格好で、どこへ行くんですか?」 岡ちゃんは二十代後半。花屋に勤めているから、というわけではないが、女性かと見まがうほど華奢な体つきである。ただ、背は高い。
「はぁ?当たり前じゃないですか。こう見えても足には自信あるんです。それに、それほどの距離じゃないでしょ」
ああ〜勘違い
「ちょ、ちょっと宮澤さん。どっちに行くんですか?」 鎌倉武士の鑑・畠山重忠の崇敬が篤かったといわれる驚神社。もしかすると重忠をはじめ関東の名だたる武将達も参拝に訪れたのかも知れない。鎌倉街道の出発点にはうってつけである。 神社で旅の安全を祈願して、ふたたび早淵川に戻る。
「今度はどこに行くんですか?たまプラは反対ですよ」 新石川1丁目から東名高速の陸橋を渡って墓地を抜ける。卵塔場(らんとうば)と呼ばれる道だ。ここから尾根伝いに虚空蔵山(現アルスあざみ野)へと鎌倉道が続いていたと言われている。
鎌倉道は尾根伝いに舌状台地の先端へと堀を掘って造られているのが特徴だ。谷(やと)の多い丘陵地帯は尾根伝いの方が最短距離であり、雨で通行不能になることも避けられる。掘り道にした理由は、馬が道を踏み外すことなく走らすことができる為と勾配を平均に保つためで、迅速な移動を可能にするための工夫である。また掘った土を土塁にすることで敵からの襲撃を防ぐことも出来る。 卵塔場の道を市営地下鉄の線路と平行して、国道246号に降りる。観福寺の下を江田駅方面に歩いて荏田の交差点を左に曲がると旧大山街道の荏田宿に出る。 「鎌倉街道」には「上ノ道」「中ノ道」「下ノ道」「山ノ道」と言う主要な幹線道路が四つ存在した。(近年の調査では、京鎌倉往還、甲州鎌倉道、上総三浦鎌倉道を含めて七道) 我われがこれから辿る道は、そのうちの「中ノ道」である。「中ノ道」は鎌倉から戸塚→二俣川→中山→川和、そして荏田へと通じ、荏田宿から先は中川→有馬→宮前平、そこから田園都市線と平行して二子の渡し。岩槻(埼玉)、古河(茨城)を経て遠く奥州(東北)に向かう。 今二人が歩いてきた道は中ノ道の支道(枝道)である。荏田から北に別れ、驚神社の東を通って新石川、美しが丘、菅生を抜け、登戸に達する。 荏田の交差点を左折すると、大山街道の荏田宿跡である。あいかわらず狭い道だ。車に注意しながら進むと、民家の庭に常夜灯(文久元年・1861年)がある。説明板もあるのだが、人の家を覗き見しているようで気がひける。そのまま50mほど進み郵便局のある路地を右折する。 「こんな事でもなければ歩かない道ですよね♪」 何を期待してか無邪気にはしゃぐ岡ちゃん。さて二人は無事に鎌倉に辿りつけるのであろうか?まだ旅は始まったばかりである。 |