| ■ひろたりあん通信バックナンバー |
| ▼2005年6月号 |
| 地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」 |
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■番外編 街道を往く 鎌倉街道5 上サ下タ?どうした? 下市ヶ尾と川和の境の辺りは、地元ではカサと呼ばれていた。「上サ」と書く。 「上にサでカサですか?ウエサでしょ。そういえば中原中也の詩に『丘の上(うえ)サあがって』というのがありましたね。(千葉の街サ見たば)っていうのが面白くて覚えているんですけど」
「東北や関東では、サは存在の場所や、移動の目的地を表しているんだね。格助詞ってやつだよ。あざみ野サ住んでる。とか、津軽弁のドサ(どこへ?)ユサ(風呂へ)なんかもそう。」 「ドサユサ?わかった!僕たちは、鎌倉サ行くサ〜!きっと行けるサ〜」 「おまえはウチナンチュー(沖縄人)か!」 「ヘヘヘッ。カサは上(かみ)サで上の方という意味なんですかね?」 「さぁ〜?川和には他にも(下タ)と書いてシタタと読む字名もあるんだ」 「シタタ?ナンジャソリャ?」 その「上サ」のかたわらにある庚申塔やお不動さんが集められた祠(ほこら)の横から、車が一台やっと通るほどの細い路地を入って行く。ここから先が、かつての川和宿のあった集落である。 「緑が多くて、静かですね〜。本当にここが川和宿だったんですか?いつも車で渋滞している荏田宿とは大違いだ」 「荏田宿は、国道246を横切っているからしょうがないよ。ここも当時は、市が開かれて、都筑郡でも一番の賑わいをみせたそうだよ」 しばらく行くと、静かな日陰の道がパッと明るくなり道幅も広くなった。しかし、あいかわらず農地や雑草が生い茂る空き地が両側に続いているので、のんびりした風景は変わらない。 河輪の神様 「この高橋運送のご夫婦には、昔から大変お世話になっているんだよ」 「そうなんですか。この鳥居は?」 「この鳥居が八幡神社の入り口さ。昔は河輪神社と言ったそうだ。平安時代の始めに河輪の神様に官位を授けたと書かれているから、もっと古い由緒があるんだろうね。高橋さんによると、昔は桜並木の参道が、この鳥居から神社までずっと続いていて、お祭りの日には、縁日の屋台が軒を並べるほど賑わったそうだよ」 今は参道の両脇は住宅と農地になっている。桜の木はわずかしか残っていない。 「境内も明るくさっぱりしていて、ちょっと神社っぽくないですね」 「かつては、河輪の森といったくらいだから鬱蒼とした鎮守の森だったんだろうね。樹齢千年以上の杉の大木も残っていたそうだよ」 「八幡神社というのも全国にたくさんありますよね」 「そうだね。八幡神社は全国で四万社以上あるから日本一だろうね。八幡神は武の神様。源氏の氏神として鎌倉時代以降、全国に広まったというから、鎌倉街道の宿場だった川和にも勧請(かんじょう)されたんじゃないかな?」 「ふ〜ん。じゃあ、平安時代より前の河輪の神様は、どこに行っちゃったんだろう?」
「八幡や稲荷などメジャーな神社の境内の隅や本殿の横などに小さな祠があるだろう?摂社(せっしゃ)とか末社。もしくは門客人社(まろうどしゃ)というんだけど。本来の土地の神様は、そういった神社の隅にいらっしゃるんだよ。もっとも名前も書いてなかったりするから調べようが無いんだけどね」 八幡神社の境内にも小さな祠があった。しかし、三つの扉は固く閉ざされていた。 熊井太郎忠基 「鎌倉幕府の公式記録・吾妻鏡に河匂(かわわ)三郎とか七郎という名前が出てくるんだけど、その根拠地がこの川和だと言われているんだ」 「本当ですか?」 「字は違うが大磯の近くの二宮にも川匂という土地があって、川匂神社もあるから、そちらが根拠地だという説もある。ただ、他にも江田、鴨志田、都筑といったこの辺りの地名と一致する武将が載っているし、何より武蔵の住人ということで、こちらの可能性が高いんだ」 「そうか、大磯じゃ相模の国ですもんね」 「でも、埼玉にも河輪神社があるから断定はできないね。それより、義経の郎党(家臣)で弁慶や伊勢三郎と一緒に壇ノ浦や屋島で活躍した人物に、江田源三と熊井太郎という武将がいるんだ。あまり有名じゃないけど。その(熊井太郎忠基の碑)というのが、この先にある妙蓮寺というお寺の墓地のてっぺんに建てられていて、この川和の地に熊井太郎の館があったんじゃないかと言われているんだよ」 「義経ゆかりの人物が、この川和に?面白いですね〜」 妙蓮寺は山号を城根山という。字名に城山下(しろやました)や城古場(ぎこば)とあるように、この山は後北条氏の川和城の跡だと伝えられている。
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