■ひろたりあん通信バックナンバー
 ▼2006年2月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■番外編 街道を往く 鎌倉街道 13

 旭区役所の目の前で帷子(かたびら)川と二俣川は合流する。二俣川の名前の由来は、この二つに分かれた合流点から付けられたといわれている。

 その区役所の裏手から、二俣川に沿うように歩き、イトーヨーカドーのところで相鉄線の踏切を渡る。渡るとすぐに「八百藤」という八百屋さんがある。その手前の路地、三人のご婦人方が井戸端会議をしている脇をすり抜けて右に曲がる。

 駅が近いせいか人通りも多い。次の三叉路をゆるい坂道になっている細い路地を線路に沿うように上って行くと、右下に二俣川とタカナシ乳業の建物が見えてくる。

片方のヒラ
「帷子川っていうのは、確かタマちゃんがいた川でしょ?」

「そうだよ。横浜駅からビブレと相鉄ムービル行く時に橋を渡るだろ。あの川。横浜港に注いでるんだよ」

「やっぱり、どっかで聞いたことがあると思ったんだ。カタビラっていう読み方もその時覚えたんですよ」

「河岸の片方が崖で、もう片方が平らな土地。つまり片平がカタビラになったという説がある」

「そうなんですか?別にヒラをビラにすることないのに」

「説だよ、説。人が亡くなった時に、帷子という着物を着せて、川向こうの寺に葬ったからとも言われている。それに平と書くからといって平らとは言えない。平川という地名(美しが丘編)を調べた時に分かったんだけど、崖や急な坂のことを、アイヌ語などでは、ヒラとかピラと呼ぶから、まったく逆。片方が崖だともいえる」

「逆になっても、片方がヒラなんだから、片平でいいじゃないですか〜」

「あっ、そうか!」

 古い住宅街の細い路地をなおも進むと、今度は真新しい住宅の列、それが途切れると四つ辻に出た。が、そこは曲がらず、突っ切って坂を上る。左手に杉林。右手に畑。すると金網のフェンスにぶつかった。東海道新幹線の線路だ。右に折れて「第2二俣川橋」を渡る。

「おっ、来た!のぞみだ!」 さすがに速い。あっという間に橋の下を通り抜けた。

 橋を渡り、一方通行の細い路地を真っ直ぐに400メートルほど進む。「旧鎌倉街道・探索の旅」の本によると、この道は「長堀通り」と呼ばれていたそうだ。右が本宿町で左が川島町。つまり鎌倉道の特徴である、凹状の尾根道が境界線になっているのだ。住宅が建っているから分かりづらいが、かつては見晴らしがよかったに違いない。

 道は、左近山団地にぶつかって消えているので、右手に回り込む。すると東京電力の建物と鉄塔が現れるので、そのまま、東京電力と団地の間の道を進む。いくらも行かないで、今度は「保土ヶ谷バイパス」の陸橋を渡る。

ホドだがや!
「保土ヶ谷という地名は、平安時代の榛谷御厨(はんがや・みくりや)が訛(なま)ってついたといわれているんだ」

「はんがや?みくりや〜?」

「御厨は、有力な神社の所領となった荘園の一種だよ。藤沢の大場御厨やこの榛谷御厨は、伊勢神宮に供物を納めていたんだ。榛谷は土地の名前。鎌倉時代、この土地を治めていたのが榛谷四郎という武将。さっき話した稲毛三郎の弟だよ。兄弟揃って弓の名手 だったといわれている。畠山重忠と同じように頼朝からも、ずいぶんと信頼されていたそうだ」

「三郎に四郎か。兄弟なのに苗字が違いますね?」

「二人の苗字は、もともと小山田というんだ。 鶴見川をさかのぼっていくと、町田市の源流の近くに小山田という土地があるだろ。父親がそこの別当という役職だったから小山田という苗字になった。もともとは重忠と同じで秩父氏なんだよ。それぞれが新しい土地をもらって、その土地の名前を苗字にする。これ鎌倉時代の常識よ」

「ふ〜ん。秩父が畠山と小山田になって、小山田は、稲毛と榛谷になったってことね。って、ことはですよ。稲毛三郎が畠山重忠の従兄弟なんだから、その榛谷四郎も重忠の従兄弟ということになりますよね」

「二人が兄弟なら当然だろ」

「じゃあ、榛谷四郎はどうなったんですか?」

「兄の稲毛三郎と同じように、重忠謀殺の主犯とされて、三浦一族によって滅ぼされたんだ」

「三浦一族?三浦半島の豪族ですか?」

「頼朝が石橋山で挙兵したとき、まっさきに味方したのが、三浦半島を拠点とした三浦氏なんだ。畠山氏や小山田氏といった北関東の秩父党は平家について頼朝の敵にまわったんだよ。その時の戦いで、 三浦氏側は総帥の三浦義明を重忠軍に殺されている」

「えっ、それじゃあ三浦氏は秩父党を恨んでるでしょうね」

「そう思うだろ。それがこの話には裏があってね。本来、秩父党は頼朝の源氏側に付きたかったんだよ。だけど、父親と叔父さんとが京の都へ役目で上っていた。それでその身を案じた重忠は、しかたなく大庭景親の檄(げき)に応じて、平家方に付いたのさ。だから、わざと石橋山の合戦には遅れて行ったといわれている。それに、重忠の母親は三浦氏の出身だ。つまりは、こちらも親戚ってことだね」

「なんか複雑ですね。じゃあ、なんで重忠は三浦氏の総帥を殺す羽目になったんですか?」

「そこが、この時代の悲しいところだね。石橋山に間に合わなかった重忠軍が、相模川あたりに陣を布いているところに、同じく石橋山に間に合わなかった三浦軍がやってきたことから戦になった。三浦側は350。対する重忠軍は3000。しかも、後から平家方の大庭軍が万余の軍勢で迫っている。そこで、衣笠城に追い詰めた重忠は機転をきかせて、わざと退路を開けて城に襲いかかったのさ」

「それから、それから?」

「そうと知った三浦氏の総帥・大介(おおすけ)義明、このとき90歳に近いんだけど、孫の意を汲んで…孫っていうのは重忠のことだよ」

「わかってますよ!」

「意を汲んで、自ら城を枕に討ち死に。そんでもって他の一族を落ち延びさせたんだ。落ち延びた一族は、房総半島に渡り頼朝と合流して軍を集め、逆転に成功することができたってわけよ。このことがあったから、平家方だったにもかかわらず、頼朝に許されて源氏方の一員になれたんだよ。それだけじゃない。こうした男気が、頼朝の信頼を得る要因になっていったんだろうね」

「でも、その三浦氏も北条氏に滅ぼされている。うまく利用されたというか、利害関係や怨恨。目に見えない複雑なものが絡みあっているんだろうね。相模の武士団と武蔵の武士団に も、いろいろな確執があったのかもしれない」

「鎌倉幕府って、なんか陰惨。ちっともいい国作ろう鎌倉幕府じゃないじゃないですか」

「これから武士の世の中が来る。都の公家どもの好き勝手はさせないぞ。誰しもいい国ができると信じていたんだよ。願望だね」

 陸橋を渡ると、下り坂になる。道は更に細くなる。途中、わずかに雰囲気のある道が残っていた。

「寿々…なんとか園芸。これ何と読むんです?」

見ると、漢数字の七が山状に三つ並んでいる。

「確かこれは…喜ぶという字じゃないか。寿々喜。すずきだよ」

(この字は変換できませんでした)その「寿々喜園芸」の看板を左に折れる。

「今の字を見て、思い出したけど(はんがや)が(ほどがや)に訛るのって無理がないですか?」

「思い出したって、今の字と全然関係ないじゃん。…まっ、いいや。榛谷は元々、幡谷(はたがや)と言ったんだ」

「ハタガヤ。それなら納得」

「もう一つ。窪地を表すホドやホゾからついたという説。名古屋弁で言うと『ホドだがや!』だな。ホゾはほら、ヘソのことをホゾというだろ」

「…名古屋弁はいいです。わけわかんなくなるから。なるほぞ。いや、なるほど。ホゾはヘソかぁ。ヘソのように窪んだ谷。ますます納得」

「ホドという言葉には、まだ意味があるんだよ」

「まだ?どんな意味ですか?」

「フッフッフッ。それは来月のお楽しみ」                       つづく         


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