■ひろたりあん通信バックナンバー
 ▼2006年9月号
夢の吹く丘 〜都筑の丘のすばらしき人々〜
■農家のおばあちゃん  村田 喜久代 さん

  焚き火にて暖をとりつつ梨の木の剪定急ぐ夫とひと日を

  花粉樹に 接ぎたる梨の芽のつきを 嫁と確かむ 朝の一刻


 結婚五十五年を記念して、三年前に自費出版された歌集の中の二首です。ご主人、そしてお嫁さんと仲睦まじく梨畑で作業されている姿が目に浮かびます。

 「御陰さまで、八十過ぎても夫婦揃って元気で働いていますよ(笑) 私はどんなものでも、畑でとれれば一番先に仏さんにあげるんです。茄子がとれても胡瓜がとれても、これは年中言っていることなんだけど、やっぱりご先祖さんを大事にしているから、こうして元気でいられるんだねぇ」

 みたけ台にお住まいの村田喜久代さん。短歌が百五十五首収められている歌集の中の半分以上は、日々の農作業をしながら詠まれたものです。ペンと紙を畑の側らに置き、作物の生長する様子、四季の移ろい、肌や心で感じたものをそのまま歌にされました。

 「私はもう子供の頃から百姓が大好きだったの。『お母さん、もう八十過ぎているんだから、やめたほうがいいよ』っていうんですけどね(笑)農業が大好きだから」 

 毎朝、四時半に起きて、電動自転車に乗って五時には畑に通っていらっしゃいます。
「私達は、兄弟も仲がいいのよ。大勢いるけど、今現在私以下十一人。男が五人の女が六人。すごいでしょ(笑)」

 ご実家は、今の柿の木台のゴルフ場。実弟の博さん(現、石原家当主)も六年前に『伊勢参宮道中記(いせさんぐうどうちゅうき)』という本を出版されました。

 なんと、この本はお二人の曾祖父が、百二十年前に東海道を使って伊勢神宮に参宮し、その足で関西や四国を巡った道中記。それを編纂されたものなのです。それから叔父さんは、谷本小学校の先生でした。喜久代さんの文才は、ご先祖から受け継がれたものに違いありません。

 「あはは、恥ずかしいよ。私は高等小学校きゃ行ってないの。昔は、男の兄弟は旧制中学まで行ったんだけどね。その頃は長津田の駅まで行かなきゃ電車が無くて、駅まで山道を歩いて行ったからね。女は危ないからって行かせてもらえなかったのよ」


 五百年近くもここに住み継ぎし我が先祖らに香を手向けぬ


 五年前の「わが町今昔」に、戦前のもえぎ野公園の工事風景の写真があります。この池の堤防工事は、喜久代さんの父・正行さんが指揮をとられたそうです。(下の写真、右端下から二人目)

 「これが私の実家の田んぼ。父が私に言うのには『お前のもんぺ一枚と田んぼ一反が同じだ』って、その頃は木綿が高くてね。一反が千五百円したのよ。一反でもんぺが二枚きりできないの、田んぼが一反八百円。それで嫁に出されたの(笑)」

 菩提寺である祥泉院(みたけ台)の過去帳によれば、村田家のご先祖は、戦国時代初めに京都の丹後半島から3人の兄弟でこの土地にやって来て、一番初めに住みついたんだそうです。

 「私がここに嫁いできたときは、みたけ台、柿の木台、もえぎ野で六十五戸しかなかったのよ。今じゃ何千戸でしょ。随分変わっちゃったわね」


作物を作りつづけて 五十年 野菜作りは殊更楽し


 農家に生まれ、農家に育ち、今も現役で野菜作り、浜梨作りに精を出す毎日。自分自身で栽培方法を考え出すほど、農作業が人生の一番の楽しみです。

 そんな喜久代さんの趣味。それは新聞、ラジオなどへの投稿です。「思い出の旅」「季節みつけた」「自由の声」など、神奈川新聞の投稿欄に採りあげられた記事の切り抜きが、アルバム一杯に貼ってありました。

 最近は、もえぎ野のユートピア青葉(老人福祉センター)で、月に一回、第三火曜日に、百人一首も楽しんでいるそうです。

「私が同級生何人かに呼びかけたら、来てくれたの。楽しいですよ〜すごく。十代の頃に習ったんだけど、今でも全部覚えてますよ(笑)」

 お話をお聞きしていても、人の名前や出来事を事細かく覚えていらっしゃる、その記憶力には脱帽です。(自分の物忘れのひどさが情けなくなりました)
 再来年は結婚六十周年。ぜひまた記念の歌集など出していただきたいと思います。本日は貴重なお話を有難うございました。

 お話を聞いているうちに、なんだか故郷が懐かしくなりました。(この締切が終わったら帰ってみようかな…)

                                                宮澤

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