■ひろたりあん通信バックナンバー
2007年1月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■番外編 街道を往く 鎌倉街道 24 

学校の力石
 『西本郷小学校校門前の道標』というキャプション(説明文)の付いた写真が『旧鎌倉街道 探索の旅』に載っていた。

 それらしき物はないかと、校門前に立って辺りを見回してみる。

「あっ!あれかな?」門の左側のフェンスに白い説明板がかかっていた。

「力石(三十〆目)の由来…」

(な〜んだ、ちから石か!)

 説明板の下の地面には、周りを小石に縁取られた大きな石が埋められていた。力石なら、青葉区の古い神社などで何度か目にしている。その村の若者が力自慢を競った石だ。しかし、こうして埋められて保存してあるのは初めて見た。

 三十〆目の横の振り仮名が消えていたので、一瞬何のことか分からなかったが、どうやら尺貫法の「貫目(かんめ)」のことらしい。一貫が3.75キログラムだから、三十貫目は112.5キロになる。表に出ている部分だけでは、それほど大きく感じないが、結構な重さだ。

 説明板には、春日森関という小菅ヶ谷出身の力士が軽々と持ち上げ手玉に取ったとか、田中某氏が、草ぶき屋根にはしごを掛けて、屋根の棟まで担ぎ上げたなどと書かれている。力士の方は分かるが、田中某氏の話は凄すぎないか。だって、112.5キロだよ。これが本当だとしたら、名前くらい残しておいてやってもいいだろう。田中某じゃ悲しすぎる。

「おっと悲しんでいる場合じゃない。探しているのは力石じゃなく道標だった」

 正門のまわりを見渡しても、門から校庭を覗いても、やはり見つからない。

「いかん、いかん」 このご時勢、小学校の校門前なんかでウロウロしていたら、警察に通報されかねない。(李下に冠を正さずだ)

 

 仕方なく諦めて歩きかけたら、小学校3年生くらいの男の子が二人、目の前を通りかかった。

 「ねぇ、ねぇ、ちょっと聞くんだけど…」 不審者に思われないように笑顔で話しかける。本の写真を見せて訊くと一人の子は「知らない」と、大きく首を振った。

 すると、もう一人の帽子を被った子が「あ、あれじゃん。橋のところにある…。ほら!ほら!」

 言われて、さっきの子も「ああ、あれか〜」と、合点した。

 聞くと、そのまま街道を進んで行った先、橋の手前のお地蔵さんの横に写真の道標があるらしい。お礼を言って彼らと別れる。

 200メートルほど歩くと、交差点の手前にお地蔵さんはあった。延命地蔵尊と書いてある。目的の道標も、地蔵堂の右隣にしっかりと建っている。どうやら、学校に移されていたものが、再びここに戻されたようだ。(25年前の本だという事を忘れていた)

いたちの意味
 今度の道標にも、「従道(これより)ぐミやうじ道」と彫られていた。その横の面には「とつか道」とある。

 年号は元禄四年。 この年、ドイツ人医師ケンペルが江戸から長崎までを旅をしている。その時の日記に、戸塚宿を出たあと、紀伊徳川家の大名行列と出会ったとある。

 鎌倉道から枝分かれして、東海道の戸塚宿へ向かう「とつか道」は、江戸時代にできた。今立っている信号の所から、真っ直ぐ北へ向かって伸びている道がそうだ。

 お地蔵さんと道標のすぐ後を「いたち川」という川が流れている。橋に書かれた「いたち」の文字は、「けもの編」に自由の由という字だ。「いたち」を変換すると鼠に由の「鼬」の字が出てくる。「」の文字は辞書を調べても載っていない。仕方がないのでコピーした。平安時代の文献には、この字が使われているそうだ。

 の字の「由」という字は、上に動くとか上に伸びるという意味がある。油は「水の上に動く」で、抽は「手で上に引き出す」という意味になる。その逆に下を伸ばすと、「甲」の字になる。「上に引き出す」の反対「下に動かす」は、つまり「押す」だ。

 親しい友人に「鼠を掴まえて引っ張り上げたら、胴の長〜いイタチだったんで驚いた。だから鼠に由の字なんだよ」と自分の解釈を自慢げに話したら、「イタチがいると鼠がいなくなるって聞いたことがあるよ。つまりイタチに鼠が追い出されるからじゃない」と返された。(う〜ん、それも一理ある)

 その鼬が生息していた川だから「いたち川」だと地元の広報誌には書いてあったが、ほかにも謂われがある。

 鎌倉の将軍が、武蔵の国へ向かう時、ここで昼食をとった。つまり、将軍の「出で立ち」。もしくは、 軽装でやってきた武士が、ここで鎧兜に着替えた。つまり、出陣の「出で立ち」。

 どちらかは分からないが、「出で立ち」が訛って「いたち」になったいう説であることには違いない。いずれにしても、ここが鎌倉の出入り口であり、当時の交通の要衝だったことに由来する。

発掘された道
 「いたち川」に架かる橋を新橋という。「しんばし」ではなく「にいはし」と読む。その新橋を渡って一〇〇メートルほど行くと、歩道橋がある。この歩道橋の下を、交通量の多い二本の道路が走っている。

 手前の道路は環状4号線だ。右折すると横浜横須賀道路の朝比奈インターを経て金沢八景に、左折すると戸塚区の原宿交差点で国道1号にぶつかる。この道路は、将来的には青葉区の鉄町までつながる予定だ。

 その次の道路は大船の駅前に向かう。

 その二つが歩道橋の左横で交差する。現代の交通の要衝、市内屈指の渋滞の名所「笠間十字路」がここである。

 二本の道路の上を横切り、歩道橋を降りると、しばらく真っ直ぐな道が続く。100メートルほど行くと、「今泉村不動」があり、その先の幼稚園は、お寺の境内にあった。自分の通っていた幼稚園(名古屋市東区)もお寺が経営していたが、なんとなく雰囲気が似ている。どちらも、風情を感じる町並だ。

 300メートルほど行くと、今度は右手の崖下に庚申塔が六基並んでいた。

 その横にバスの停留所のような小さなスペースがある。「笠間中央公園」という看板が立っているので、辺りを見回したが、公園なんてどこにもない。不思議に思って地図を見ると、公園は崖の上にあった。

 この公園を作る際、弥生時代から中世にかけての遺構が見つかっている。中でも鎌倉時代以降に造られたという道路跡は注目にあたいする。

 幅約十メートルの道には、幾つもの溝が並んでいて、溝の中には水はけの良い土が詰め込まれていた。そうしたあと、表面を平らにならして踏み固めるという、いわゆる基礎工事が施されていたのである。

                                               つづく


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