■ひろたりあん通信バックナンバー
 2007年6月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■番外編 街道を往く 鎌倉街道 29

花めぐり、墓めぐり
 山門をくぐり、入口で整美料100円也を払って中に入る。拝観料ではなく整美料というだけあって、細長い境内の庭は美しく整えられている。お寺というよりも自然豊かな庭園といった趣きだ。桜や梅はもちろん、モクレン、ミツマタ、カイドウなどなど、色とりどりの草花が訪れる人の目を楽しませる。

 参道の脇で観光客の女性が、およそ不釣合いな高級一眼レフを構えてしゃがみ込んでいた。レンズの先には、可憐なカタクリの花が一輪。思わず私もしゃがみこむ。

 ひっそりと咲く小さな命に、疲れた足腰の痛みも忘れ、しばし見惚れる。

(初夏には、紫陽花や花菖蒲が見頃になる。そそり立つ崖に紫色の小さな花を咲かせる「いわたばこ」は必見である)

 さらに、奥へと進む。鬱蒼とした森に囲まれてちらほらと墓地が現れた。墓石が並んでいる様子に、ここがお寺だったんだとあらためて認識する。ただし、緑に囲まれた墓石や五輪塔には、他のお寺にはない風雅さが漂っている。

 

 東慶寺は、鎌倉幕府八代執権・北条時宗の死後、その正室である覚山尼(かくさんに)が夫の菩提を弔うために、その子どもである貞時によって建立された。

 のち、後醍醐天皇の皇女、用堂尼が五世の住職となったことで、「松ヶ岡御所」と呼ばれるようになる。

 夫と別れたい女性を救済するための「縁切寺法」は覚山尼が始めたと伝えられるが、それを確立したのは江戸時代初めに二十世住職となった天秀尼である。

 天秀尼は大阪夏の陣で滅んだ豊臣秀頼の娘で、養母の千姫により助命され、家康の温情で東慶寺の住持となった。

こんなエピソードがある。

 江戸時代初め、会津藩の藩主加藤明成と家老堀主水(もんど)との間に意見の衝突があり、堀が妻子を連れて出奔(脱藩して姿をくらます)するという事件があった。

 会津から逃げた堀は、途中妻子を鎌倉東慶寺に預け、自身は紀州高野山に逃げ込んだ。しかし、会津藩ともめることを怖れた高野山は、追っ手の引渡し要求に応じ たため。彼はその場で殺害されてしまう。

 一方、妻子が逃げ込んだ東慶寺では、会津藩の引渡し要求に対して、天秀尼が断固としてこれを拒否。「寺に逃げてきた女性を守るのは私の務め」と、その顛末を幕府に訴えて 出たため、  このことは千姫から将軍家光の知ることとなり、会津藩加藤家は改易されてしまう。

 この事件によって「駆け込み寺・東慶寺」の名とその権威が全国に知れ渡るようになったのである。

 明治6年、民事のうえで女性の離婚請求権が認められるようになったことから、「縁切寺法」は廃止された。600年にわたる女性救済の尼寺の歴史は幕を閉じたのである。

 覚山尼、用堂尼、天秀尼、三人の女性住職の墓に手を合わせたあと境内を出た。
 

鎌倉FMの二人
 山門を出て階段を降りると、傍らに石碑があった。『夏目漱石参禅百日記念碑』とある。 

(へぇ〜漱石も訪れたのか〜)と、感心しながら読んでいくと、なんと、漱石はこの場所で(立ちション)をしたということが書かれていた。

 時代は大正元年、当時「北鎌倉」の駅は無く、鎌倉駅から東慶寺まで人力車でやってきた漱石と友人。寺の石段を上る前(つまり、このあたり?)の稲田の縁に立って小便をした友人を見て、自分も「顰(ひそみ)に倣(なら)った」とある。

 顰に倣うとは、善悪を考えずに人の真似をすることだ。(お寺の前だぞ。少しは考えろよ!)と、つっこみをいれたら、何だか自分も催してきた。股間を押さえ、トイレに行こうと振り返った時。

「あっ!やっぱり。またお会いしましたね。アハハハ」

 明るい笑顔がそこにいた。八雲神社で出会った「ノトハラさ〜ん」と呼ばれた謎の美女だ。

 慌てて股間から手を離す。(てゆ〜か、トイレに行くのに股間に手をやるなよ!)

 

「東慶寺行かれたんですね。よかったでしょ?花は咲いてました?」

「えっ、花?・・・ああ、カタクリとか、え〜と・・・咲いてました・・・よ。いっぱい」いきなりなので、しどろもどろである。

「私たちは、八雲神社の崖の裏にあった庚申塚の写真を撮ってから、まっすぐここに来たんです。知ってました?あそこには庚申塚が沢山集められていて、その中には、鎌倉で一番古い庚申塚もあったんですよ 〜。こんなに大きくて、もうびっくり!」

「あっ、そうなんですか。へぇ〜庚申塚があの裏に・・・、失敗したな、写真だけでも撮ってくればよかった」

「ごめんなさい。知っていたら教えて上げられたんですけど・・・私も初めてだったので・・・」

「とんでもない。こちらの勉強不足ですから。また機会があったら行ってみますよ。ところで…失礼ですが、もしかして歴史の先生ですか?安倍晴明とか庚申塚 とか・・・、いろいろとお詳しいようだけど・・・」

 ようやく態勢を立て直し、先ほど聞きそびれた質問をぶつけようとした時、背後に人の気配を感じた。驚いて振り返る。と、そこにはブルーのシャツを着た江原啓之(ひろゆき)が・・・いや、よく似ているけど違った。

「お知り合いですか?」その男性が彼女に向かって訊ねる。どうやら八雲神社で、彼女の名前を呼んだのは彼らしい。

「あ、この方は、ほらっ、さっき八雲神社で、安倍晴明の石を踏みそこなった方ですよ」と彼女が紹介する。

「ああ、踏みそこなった人ですか!どうも」

「ど、どうも、踏みそこなった者です。・・・ん?って、なんだかな〜、見損なった人に聞こえるんだけど」

「アハハハごめんなさい。申しおくれました。私、鎌倉FMのパーソナリティをしています、能登原秀実です。由比ヶ浜のスタジオで、彼と二人で毎週月曜日の夕方、『シーサイドカフェ828』という番組をやっています」

「はじめまして。棚橋隆といいます」

「あっ、ラジオの方だったんですか。これはどうも失礼しました。私は・・・こういう者ですけど」

 名刺を交換しながら、自分の素性を明かし、青葉区から鎌倉まで鎌倉道を歩いて取材していることを伝える。

「青葉区って横浜の一番北ですよね。へぇ〜、すご〜い!」

「何十キロあるんですか〜? ノトハラさんについて北鎌倉を散策するだけでもヒィヒィいってるのに・・・へぇ〜、僕にはとてもできません」 

「楽しいですよ。新しい発見が沢山あって、驚きの連続です。まだまだ歴史は息づいてますね。とくに鎌倉に入ってからが面白いですよ」

「鎌倉だったら彼女は詳しいですよ。僕は歴史はまるっきり苦手ですけど、ノトハラさんは今度『鎌倉検定』を受けるんですよ」

「よかったら、ガイドしましょうか?どこでも大丈夫ですよ。なんて鎌倉検定の勉強で仕入れたものがほとんどなんですけど」

「えっ、本当ですか?それは助かるな〜、ぜひお願いします」

「じゃあ、さっそく次に行きましょう」

 サッと、踵を返して鎌倉道に出て歩き出すノトハラさん。男二人がそれに続く。

 ふと、江原・・・ではなく棚橋さんの背中の文字が気になった。大きな数字の3に「J・E・A・N」とプリントしてある。

(背番号3に、ジーン・・・?誰だっけ?)

「あ、これジーンじゃなくて、ジャーンですよ。背番号3、湘南ベルマーレのディフェンダーです」

「うっ!」疑問を声に出したわけじゃないのに・・・人の心が読めるのだろうか?もしかして、本当にスピリチュアル・カウンセラー ?。少なくとも歴史よりサッカーが得意なのは間違いない。

  陶芸館、漬物屋さん、精進料理のお店と、東慶寺から先鎌倉に近づくにしたがって古都らしい雰囲気のお店がちらほらと現れる。それらの店には目もくれずズンズンと先に進むノトハラさん。北鎌倉散策は初めてのこちらは、おのぼりさんよろしくキョロキョロまわりを見ながら歩くので、いつの間にか十数メートルも離されてい る。しかし、その中間点でいつも気を使いながら待っていてくれる棚橋さん。なんと優しい人だ。

 足早にノトハラさんを追いかける。なんとか横須賀線の踏み切りの手前の路地で追いついた。と思ったらすぐに路地を右に曲がる。その50メートルほど先には、背の高い樹木におおわれた幽玄な雰囲気の山門 がある。

「ここが鎌倉五山第四位の浄智寺です。このお寺も花の寺として有名なんですよ。山門の手前にある井戸が、鎌倉十井(じゅっせい)の一つ『甘露ノ井』です」

 鎌倉五山(かまくらござん)とは、鎌倉時代末期、幕府によって建てられた禅宗の大寺院を、南宋の五山十刹制度に倣って、鎌倉の寺の寺格を決めて選定されたものである。因みに、第一位 が建長寺、第二位 が円覚寺、第三位 が寿福寺、第四位が浄智寺で、第五位 が浄妙寺となる。

 また、鎌倉十井とは、美味しい水が出たという言伝えのある井戸のことで、「棟立の井」「瓶の井」「鉄の井」「泉の井」「扇の井」「底脱の井」「星の井」「銚子の井」「六角の井」そしてこの「甘露の井」と、鎌倉にある10個の井戸を合わせてこう呼ぶ。 ほかにも鎌倉五名水とか、鎌倉七口、鎌倉十橋など・・・ふーっ!疲れた。とにかく鎌倉は数字をつけるのが好きなのだ。

「あ、そうそう。ここには、すごくユニークな布袋様がいらっしゃるんですよ。こんな感じ に指をさしてるんです・・・」

  言いながら人差し指を突き出すノトハラさん。その指先は、あきらかに私の背後を指していた。ぞくっとして振り返ると・・・


                               つづく


■前に戻る■