■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2007年8月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■番外編 街道を往く 鎌倉街道 31

  鎌倉への出入り口は七つある。名越(なごえ)切通し、朝夷奈(あさいな)切通し、大仏切通し、極楽寺(ごくらくじ)切通し、巨福路坂、仮粧(けわい)坂、そして、今回私たちが通った亀ヶ谷坂。俗に「鎌倉七口」もしくは「鎌倉七切通し」と呼ばれる。「切通し」とは、文字通り山を切り開いて通した道である。

 もっとも七口の名前は、鎌倉時代に呼ばれていたわけではなく、江戸時代に「京都七口」を模して付けられたそうで、七口以外にも、現在通行禁止になっている釈迦道(しゃかんどう)切通しなどがある。

 最近は、鎌倉の尾根筋を歩くハイキングコースが人気だそうだが、七口が整備される以前は、鎌倉へ入るための尾根筋の道が毛細血管のように張り巡らされていた。いたるところに尾根を切り取ったいわゆる「堀切り」が作られているのが、その証拠である。

「堀切」は、敵の侵入を防ぐための山城の防御のための施設(仕掛け)だ。前面が海、三方を山に囲まれた鎌倉は、まさに都市そのものが城であり要塞だったのである。

 その要塞鎌倉城の内部へ亀ヶ谷坂を越えて侵入した。もちろん、忍者のように闇にまぎれるわけでなく、崖の上から降りそそぐ弓矢や投石をかいくぐるわけでもない。女性一人、男性二人のの〜んびりとした道行きである。
 

そこに愛はあるのかい?
 坂を下りきり、住宅と緑の木々がみごとに溶け込んだ閑静な住宅街を抜けると、横須賀線の線路にぶつかる。その線路の手前にある八角形のお堂が「岩船地蔵堂」である。

 ここには、建久八年(1197年)に亡くなった頼朝の長女「大姫」の守り本尊(地蔵尊)が祀られていると伝えられている。

 大姫は悲劇の少女である。 

 寿永2年(1183年)、頼朝と対立していた従兄弟の木曽義仲との間に和議が成立した。義仲は息子の義高(よしたか)を大姫の婿という名目で鎌倉に人質として送 り、後顧の憂いを取りのぞいたあと、京へ攻め上って平氏を西走させた。 夫婦となった 義高は十一歳、頼朝が伊豆で挙兵する2年前に生まれた大姫は、わずか五歳である。だがその翌年、源範頼と義経によって義仲は敗死する。

「義仲の父親は、頼朝の兄義平(よしひら)に討たれているんですよね、確か・・・」

「そうなんです。義平は別名『鎌倉悪源太』と呼ばれて、鎌倉を拠点に武勇を轟かせたと『平治物語』に書かれてますね。その頃、武蔵の国で義仲の父親の義賢(よしかた)は悪源太義平に討たれています」

「義高は父親と祖父を揃って、頼朝の兄弟に討たれているってわけだ・・・」

「だから頼朝は、かつて命を助けてくれた平家に叛旗をひるがえした自分のように、義高も将来謀反を起こすだろうと危惧して、義高を暗殺しようとするんです」

「それは分かるけど、他に方法はなかったのかな〜、どうも源氏っていうのは血なまぐさくっていけない」

「でも、それを察知した妻の北条政子は義高をこっそりと逃がしたんですよ・・・。あっ、これは永井路子さんの小説によれば ですけど」

 だが結局、入間川(埼玉)の川原で追いつかれ、討手によって殺されてしまうのである。

「夫を父によって殺された。それを知った大姫は悲しみのあまり、床に伏して、心の病を患ったまま十九歳という若さでこの世を去ったんです」

「夫である義高のお墓はどこにあるか知ってますか?」御堂を見つめたままノトハラさんが訊ねる。

「どこですか?埼玉ですか?」

「確かに埼玉は義高の父祖の地ですからね。入間川の河畔に義高を祀った清水八幡もあります。でも、お墓は大船の常楽寺にあるんですよ。裏山にある木曽塚がそれです」

「えーっ、常楽寺って、大船の名前の由来になったという粟船山(ぞくせんざん)常楽寺ですか?」

「そう。不思議ですよね、夫の義高が粟船(あわふね)に葬られて、妻の大姫が岩船に祀られているなんて・・・」

「あっ!そうか、なるほど!アワフネとイワフネだ」

「う〜ん、アとイですか。そこには愛があるんですね」

 それまで黙って二人のやりとりを聞いていた棚橋さんが、ポツリとつぶやいた。

「おおーっ!素晴らしいー」拍手する他の二人。

「政略結婚とはいえ、大姫にとってはかけがえのない初恋の相手だったんですよね」と悲しげに瞳を伏せるノトハラさん。

「確かに、純粋な愛だったんでしょうね」と、私も似合わないセリフを口にする。

「大姫というのは名前じゃなくて、長女の通称なんですね。だから義高は大姫にとっては初めてのお兄さん、大好きなお兄さんのような存在でもあったんですよ。あっ!ただ・・・」

「ただ、何ですか?」

「私はこの地蔵堂に祀られているのは大姫ではないような気がするんです」

「というと?」

「大姫が亡くなった二年後に次女の三幡(さんまん)が14歳で亡くなっているんです。その時のことが吾妻鏡には『今夜戌の刻、姫君を亀谷堂の傍らに葬り奉るなり』と書いてあるんです。亀谷堂は、たぶんここですよね」

 平成13年に再建される前の地蔵堂

 岩船地蔵堂前のT字路は「亀ヶ谷辻」と呼ばれていたと『吾妻鏡』に書かれている。また「武蔵大路下」という記載もあるので、鎌倉から武蔵の国へ抜ける主要道「鎌倉街道・中ノ道」とも通じる。

 この地蔵堂が亀谷堂というのは、見当はずれとは言えないだろう。銘札にも『・・・大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』と頼朝の御息女としか記されていない。因みに三幡 は幼名で、通称は乙姫と呼ばれる。甲乙丙の乙で二番目の姫、もしくは弟姫(次女)ではないだろうか。

「大姫のことは吾妻鏡に書かれてないんですか?」

「大姫の死については、吾妻鏡には何も書かれていないんですよ。『愚管抄(ぐかんしょう)』という書物では、後鳥羽天皇へ入内するため上京する途中で亡くなった と書かれているそうですけど・・・」

「そうですか。大姫と義高の悲恋物語が後世に語り継がれて生まれた話かもしれないですね。いずれにしろ、義高や二人の姫君は、大人たちの政治的な思惑の犠牲となって、短い命を終えた ということだよね」

 神妙な面持ちで、岩船地蔵堂の前で手を合わせる三人。もちろん大姫と三幡、その2キロほど先にある木曽塚に眠る義高にも思いを込めて・・・。

太田道灌の子孫
  地蔵堂のあるT字路を左折して、線路に沿って細い路地を進む。右手、道路と民家の間に小さな川が流れている。小さいが、無粋なコンクリートの側溝ではなく、沢山の草花が生い茂る自然のままの姿。なにより水がとても澄んでいる。

「この扇川は、十年ほど前に改修工事をしたそうで、今ではモクズガニやホタルだっているんですよ」

 川のせせらぎを楽しみながら進むと、左手に「扇谷上杉管領屋敷遺迹 (おうぎがやつ・うえすぎかんれい・やしきあと)」の石碑が現れた。

 室町幕府が、関東の地を治めるために置いたのが鎌倉公方で、それを補佐する執事役が関東管領である。その関東管領役は山ノ内に居を構えた上杉氏の宗家である「山内上杉氏」が長く独占していた。

 この扇ガ谷の地に居を構えた「扇谷上杉氏」は、その分家的存在であったが、家宰に太田道灌が就くと、たちまち勢力を拡大。山内上杉を凌ぐほどの大大名となり南関東を支配したのである。

 文武両道を謳われた、その太田道灌の屋敷跡は、この石碑から横須賀線の踏切を渡った反対側にある。浄土宗の寺「英勝寺」がそれだ。

「この英勝寺の開基は、徳川家康の側室『お梶の方』なんですよね」とノトハラさん。

「知ってます。お梶の方は、太田道灌の直系のひ孫の娘ですね。家康の死後、三代将軍家光から先祖の屋敷があったこの地をもらって寺を建てたんですよ」私が相槌を打つ。鎌倉時代 の知識は彼女に及ばないが、戦国時代から江戸時代なら多少は自信がある。

 本堂脇にヤマブキが植えられていた。

 これは、民家に蓑を借りに寄った道灌にたいして、ヤマブキの一枝を差し出し、「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」と古歌を詠んだ娘の 逸話によるものだろう。

「山吹の歌の話は、鎌倉に住んでいたときではなく、江戸城を築城して、そこを拠点にしていたときのエピソードだと言われてますね」

「そうなんですか?てっきり鎌倉の頃の話だと思っていました。でも太田道灌って子供の頃から頭もよくて武術にも秀でていたんでしょう?」

「確かに頭は良かったでしょうね。でも良すぎて人からは嫌われていたみたいですよ。キザで傲慢で人を見下した態度があったんじゃないですか。父親にも疎まれてたくらいですから」

「ふーん、だから最後は主人の上杉定正にも嫌われて暗殺されたんですか?」

「それもあったかな。あの時代は複雑ですからね。骨肉相争う源氏の一族もドロドロでしたけど、戦国時代の初めは兄弟親戚入り乱れて国中がドロドロでしたからね・・・ハハ」(南北朝から応仁の乱を経て戦国時代の歴史がわかりづらく、興味がいまひとつ湧かないのはそのためだろう)

 太田道灌の直系であるお梶の方 は、関ケ原の戦いに家康のお供をして勝利したことで、名を「お勝の方(局)」と改める。家康との間に生まれた市姫が亡くなると、水戸徳川家の祖「徳川頼房」の養母となった。代々水戸家の姫が 英勝寺の住職を務めるのはこのためである。

 水戸御殿と呼ばれた鎌倉唯一の尼寺「英勝寺」は、現在「山門復興事業」として基金を募っている。
                                つづく


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