■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2007年10月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■番外編 街道を往く 鎌倉街道 33

 段葛(だんかずら)
 若宮大路の真ん中に一段高くなったもう一本の道がある。寺社や切り通しを除けば、鎌倉らしさを感じさせる最大の遺構がこれだ。

 土壇の上に葛石(かずらいし・縁石を兼ねる石)を積み上げたという意味で段葛。

 ただ、この呼び名は江戸時代以降のことで、鎌倉時代には置道とか作道と呼ばれた。

 源頼朝が北条政子の安産を祈願したのが動機だというが、参道と産道をかけたのだろう。

 江ノ電の駅前で鎌倉FMの二人と別れたあと、地下道でJR鎌倉駅の表口へ。そのまま観光客で賑わう小町通りに入るが、すぐに次の角を右折して若宮大路に出る。

 段葛の参道はここから鶴岡八幡宮の「三の鳥居」まで続いている。段葛の入口に赤い「二の鳥居」がある。今は、この二の鳥居から三の鳥居の間しか残っていないが、古い地図には「一の鳥居」までのものや、由比ヶ浜まで描かれているものもある。発掘調査によると、段葛の道幅は現在よりも広く、両側に土手が築かれていたそうだ。もしかしたら、敵に攻められた時の脱出路だったのかもしれない。

 段葛の道の両側にはソメイヨシノが植えられているが、大正七年までは松や梅が植えられていた。

 桜並木の向こうに若宮大路の商店街が見える。左側は飲食店や漬物屋さん、若者向けのアクセサリーやジュエリーショップなどが建ち並び、バラエティに富んでいて人通りも多い。

 一方、右側はというと、古美術商や刀剣の店、鎌倉彫の店と玄人好みの店がポツリポツリ。コンビニが一軒あるが、人通りも少なく、静かな佇まいである。鎌倉時代、こちら側には御家人たちの屋敷が建ち並んでいたそうだ。

 

(おお、鎌倉飯店)

 知る人ぞ知る小さな中華屋さんだ。以前ぶらりと立ち寄ったことがある。いちげんさんにもかかわらず、店のおやじさんからサザエをご馳走になった。そのおやじさんが、住居の無かった昭和の放浪詩人「山崎方代(やまざきほうたい)」に住居を提供したという有名人だということはあとで知った。そういうこともあり、お客さんには鎌倉通が多い。


 


重忠の邸跡
 気がつくと目の前に三の鳥居が迫っていた。八幡宮に来るのは、これが何度目だろうか…?初めて来たのは中学校の修学旅行のときだ。

 三の鳥居をくぐった正面に太鼓橋がある。当時、橋の途中で転ぶと不幸になるとか、死んでしまうとか、まことしやかな噂がクラスに流れていた。ちょうどオカルトブームで「こっくりさん」なんかが流行っていたころだ。「そんなの迷信だ!」などと言いながらも内心ビクビクしながら渡ったのを覚えている。

 そんな思い出の太鼓橋も、現在は通行禁止になっているので、源平池は両側の橋を渡る。広大な神域は頼朝在世の頃と変わっていない。建物は江戸時代に再建されたものだ。

 参拝をすませ、石畳の参道を歩いていると、灯籠に灯が入りはじめているのに気がついた。(こりゃ、急がなきゃ)参道と十字に交わる流鏑馬道を東に向かう。

 流鏑馬とは、説明するまでもなく疾駆する馬上から矢で的を射る実践的な弓術である。元は「矢馳せ馬(やばせうま)」と言った。八幡宮では、4月に小笠原流、九月に武田流の流鏑馬神事が行われる。

 その八幡宮の馬場であろうことか「競馬」が開催されていたという。社務所のところに馬券売場があったそうだ。それだけじゃない、驚くべきことに、競輪も行われていた。

 明治の初めというから、武士の世が終わりを告げた維新のすぐあとだ。七〇〇年続いた武家政権の終焉とともに、武士(もののふ)の精神の拠り所でもあった鶴岡八幡も寂れていったのだろう。

 

参拝客で賑わう、今日のような様式になったのは、大正八年のことである。
 

ついにゴール・・・か?
 「おお、これだ!」

 流鏑馬道から東門を出たところに大きな石碑が建っている。

「畠山重忠邸址」、武士(もののふ)の精神を具現化したような武将、武士の鑑ともいわれた重忠の邸はここにあった。

 碑文によると「正治元年(一一九九年)五月、頼朝の女(むすめ)三幡(さんまん)が病気にかかり、これを治すために、当時一番の名医といわれた丹波時長(たんばときなが)を京都から呼びよせた」とある。

 ノトハラさんが言っていた亀ヶ谷堂に葬られた大姫の妹、三幡だ。確か十四歳で病没している。

 「吾妻鑑(あづまかがみ)」によると、七日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷(かめがやつ)の家から、畠山重忠の南御門(みなみみかど)にある宅に移動した、この場所が南御門のその家のあった跡であります」とある。

 その年の五月七日に重忠の邸に医者が移ったということだが、三幡のいる頼朝の邸、つまり大蔵幕府があったのは現在の清泉小学校の場所である。地図を広げてみると、直線距離で西へ300メートルほどだ。まさに目と鼻の先。邸の場所をみても、重忠が頼朝にいかに信頼されていたかが分かる。

 思えば今度の旅は畠山重忠から始まったと言ってもいい。スタート地点のあざみ野の驚神社。ここは馬を愛する重忠が崇敬していたと云われている。途中の鶴ヶ峰では重忠終焉の遺跡を回り道しながら訪ねてまわった。そして最後は…

「♪♪♪♪♪♪♪♪♪」  突然携帯の着メロが鳴った。

「宮澤さん、僕です。洋介です」

なんと岡江洋介、花屋の岡ちゃんからだ。

「岡ちゃん、足の具合はどう?」

「もう大丈夫。鎌倉までは無理ですけど、たまプラまでなら歩けますよ(笑)で、今どこですか?もう鎌倉ですか?」

「鶴岡八幡の横にある畠山重忠の邸址。遂にゴールだよ。岡ちゃんタイミングいいね〜」

「あっ、重忠の邸ですか〜?ふーん…、で、やっぱり重忠の息子の重保は、そこで討たれて亡くなったんですか?」

「えっ?…重忠の息子?」

                                               つづく


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