| ■ひろたりあん通信バックナンバー |
| ▼2007年10月号 |
| 地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」 |
■番外編 街道を往く 鎌倉街道 34![]()
悲劇の英雄 あれから一週間、足の傷も癒え、心配して電話をかけてくれたのだと、思いきや… 「重忠の息子は、どこで討たれたんですか?」 予想外の質問が飛んできた。 「息子?…って重保(しげやす)のことだろ。それがどうしたって?」 重忠低から目と鼻の先、大蔵幕府跡 「実は、自分なりに調べたんですけど…。畠山重忠が鶴ヶ峰で待ち伏せされた同じ日の早朝、息子の重保はすでに殺されていたんですよ」 「知ってるよ。由比ヶ浜の邸近くで、騙まし討ちにあったんだ」 「ですよね〜、いや、宮澤さんが重忠の邸址にいるっていうから、もしかして重保の邸も、そこなのかなって、思ったんですよ。やっぱり由比ヶ浜ですよね」 「・・・どうしたの?急に重忠のことを調べたりして」
「鶴ヶ峰を一緒に歩いて、話を聞いたら、なんか調べずにはいられなくなっちゃったんです。たしか、重忠は『鎌倉に異変有り』という嘘の報せを受けて、わずかな人数で鎌倉道を急いで駆けのぼったんですよね?」 「そう。まさに『いざ、鎌倉』だね」 「まさか、自分が謀反人の罪を着せられているなんて思ってもいなかったでしょうね。ましてや息子が殺されてるなんて…。武蔵の国の北のはてから、やっと相模の国境まで辿り着いてみたら、目の前には数万の追討軍が待ち構えていたんですよ。騙されたことを知った時の重忠の気持ちは、どんなだったか…絶望ですか?怒りですか? それを思うと…悔しくって。ウウッ、関東武士の鑑ですよ、彼は。武蔵の国で生まれ育った私としては、絶対に許せません。悲劇の英雄は、義経だけじゃない! ちゅーの!」 「わかった、わかった。重忠の気持ちも、岡ちゃんの気持ちも、充分に分かったから」 「わかってくれましたか。じゃあ、行ってくれるんですね」 「へ…?行く?どこへ?」 「そりゃ、決まってますよ。重忠の気持ちを考えたら、終着点は息子、重保の終焉の地でしょ」 「えーっ!もう足腰立たないよ〜」 「大丈夫。そんなに遠くないですから、え〜と、重保の邸址は、若宮通りをまっすぐ海の方に向かった、一の鳥居の近く。そこにお墓もあるそうです」 「何だよ。もう調べ付けてるんじゃん」 急いで地図を見る。 「ここからおよそ1.5キロか〜」(着いた頃には、完全に日が暮れているな…) 「やっぱり、そこを終着点にしなくちゃ重忠に申し訳ないですよ」 「しょうがないな〜。岡ちゃんの気持ちも理解できるし…。行くよ。行けばいいんでしょ」 「あ、そうそう。今いるところの住所って、雪ノ下っていうんですよね?」 「あ?…ああそうだね。雪ノ下だ」 重忠邸址の石碑の横の電柱に「雪ノ下3‐2」と標示してある。 「お礼に地名推理のヒントをひとつ。ユキノシタって花があるんですよ。まるで小さな妖精みたいな可愛い花を咲かせるんです。鎌倉には、ユキノシタが沢山咲いているらしいですよ。ね、ヒントになったでしょ」
「さすが、花屋だけあってよく知っているね。確かにユキノシタは、鎌倉で多くみられる植物だよ。だけど、地名に関しては、こんな説があるよ。頼朝が真夏に涼をとるため、野山の雪を保管する氷室を八幡宮の北(現在の鎌倉近代美術館の別館辺り)に作らせた。その氷室のことを雪屋(ゆきおく)といって、その下方一帯の地域だから雪ノ下。こっちの説の方が有力だけどね」 「なんだ〜、残念」 「ちょっと、急がなきゃ日が暮れちゃうから。またあとで、電話ありがと」
北へ帰ろう! ここから左を見ると、100メートルほど先、道の突き当たりに宝戒寺が見える。金沢街道は、そこから直角に左に折れて東に向かう。 その宝戒寺は、二代執権北条義時以来つづいた執権・北條氏の邸跡である。 畠山氏や和田氏、三浦氏と、政敵を次々と葬り去り、鎌倉幕府の実権を握った北条氏も、元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めにより、14代高時がこの宝戒寺の裏山(葛西ヶ谷・かさいがやつ)の東勝寺で自害。一族郎党870余名も運命を共にする壮絶な最期を迎えて滅亡した。宝戒寺はその霊を慰めるため、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が開山し、足利尊氏によって造営された。
まさに、因果応報である。
感慨にふけっている場合ではない、急がなくては…。金沢街道のバス通りを横断し、反対側に渡ったら、そのまま道なりに路地に入る。地図を確認しながら、人ひとりがやっと通れるほどの狭い道を進んでいくと、「若宮大路幕府旧蹟」の石碑が現れた。 路地を更に進んで行く。「三丁目の夕日」のセットのような懐かしい街並みを抜けて、介護老人ホームの脇から若宮大路に出た。催してきたので、老人ホームでトイレを借りる。 再び大路を南に進む。途中、雪ノ下教会と鎌倉彫会館の間の路地に入る。ついでではあるが、やはり、ここも見ておかなければ…。 路地を入ると、宵闇の中にボッと、赤い光りが浮かびあがった。小さな稲荷神社である。先ほどの「宇都宮辻幕府」の址が実はここである。若宮大路幕府の址から、ここまで距離にして2百メートル。移ったというには、あまりにも近すぎる。たぶん、幕府の敷地はそのままで、入口がここから向こうに移っただけなのではないだろうか。
もう寄り道はできない。二の鳥居、鎌倉駅前を通過し、横須賀線のガードをくぐる。もはや黄昏時、次第に小走りになる。 黄昏は「誰そ彼(誰、あなたは?)」だ。すれ違う人の顔も分からなくなってきた。由比ヶ浜の歩道橋を渡り、鎌倉体育館の前を通り過ぎる。と、夕闇の向こうに大きな一の鳥居が見えてきた。
「あっ!」
鳥居を気にして、思わず通り過ぎるところだった。 歩道の傍らの大きなタブの木、その木陰の闇の中に大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っていた。これが重保の墓らしい。よく見ると花とお茶(?)が供えられている。この墓は六郎様と呼ばれ、「せきの神様」として土地の人から崇められているそうだ。 重保には喘息の持病があった。この戦いの時も、急に喘息の発作が起こり、喉を潤そうとして川に下りたところを、背後から斬られたという。それは無念であったろう。 しゃがんで手を合わせると、歩いてきた鎌倉道の風景が走馬灯のように甦ってきた。 青葉区、都筑区、緑区、旭区、戸塚区、港南区、栄区、七つの区を南北に縦断して鎌倉に入った。どのあたりからと聞かれると困るが、ふと気づくと、明らかな空気の違いを感じていた。電車や車を使って鎌倉まで来たのでは、決して感じることのできない感覚。そう、武蔵と相模の目に見えぬボーダーラインを越えたのだ。 自分の住む青葉区は、明らかに武蔵の国の空気に包まれている。祭りや風習も、多摩や埼玉、秩父と、北の方からやってきた。 石河、江田、鴨志田、都筑…、秩父氏を祖とする畠山重忠が、頼朝上洛の先陣を仰せつかった時、随兵として従った御家人たちの名前だ。とくに鴨志田氏は、重忠に加勢したことで、幕府から追われ、甲冑や武器を土中に埋め、別の土地に移ったという言い伝えが青葉区の鴨志田の地に残っている。 南ではなく、北を意識しなければ郷土の歴史は理解できないってことなんだ。(よし、地元へ帰ろう!もう一度やり直しだ!)勢いよく立ち上がり…かけて、後にすっ転んだ。 「痛たたたっ! いかん。足が…足がつった」 まさか、北鎌倉の「晴明の石」のせい…? いいや、明らかに自分の歳のせいである。トホホ。傍らを女子学生が笑いながら通っていった。
鎌倉街道編 完 |
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