■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2007年12月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■街道を往く 大山街道編 1

 ちりとてちんと掛けまして…あ、違った。江戸の庶民の旅と掛けまして、今年の東北楽天、マー君(田中将大投手)の大活躍と解きます。その心は、新人(信心)が人々を惹きつけました。


 江戸時代の農民や町民の旅というのは、もっぱら信仰の旅でした。伊勢参りに熊野詣、成田参詣、金比羅代参シュラ、シュシュシュ♪森の石松よい男、食いねぇ、食いねぇ、寿司食いねぇ。江戸っ子だってねぇ?おぅ!か、かん、噛んだの俺だよ!

大山道
 え〜、冗談はさておき、江戸時代後期、関東各地で大山詣でが一大ブームとなった。お伊勢さんや熊野と違って命がけの旅でもなく、近場だということで、みんなで団体を組んで行ったそうな。そしたら、大山まで来たんだから、ついでに江ノ島もまわっちゃおうって誰かが言い出した。こうなったら、もう一種のレジャーである。日本人が団体ツアーで旅するのは、この頃に始まったといっても過言ではない。かといって、当時ツアーコンダクターがいるわきゃない。だが、その役割の人はいた。先達(せんだつ)や御師(おし)という人がそれだ。旗は持っていないが、その先達さんの案内で、大山道をテクテクテクテク歩いて行ったのだ。

 ご存知のように、その大山道が青葉区を通っている。古代の東海道、その後、東海道が海岸沿いに移ると、江戸赤坂門から足柄峠を越えて、駿河国の沼津までを結ぶ脇往還(矢倉沢往還)として整備された。青葉区に古くから住まわれている方は「青山街道」と呼ぶ。時代により、目的地によって、呼び名は変わるようだ。現在は、国道246号が『厚木・大山街道』と呼ばれている。

新しい旅
 古(いにしえ)の旅人たちに思いを馳せ、当時の風景を想像しながら、今はなき街道筋を歩く。住宅街の真ん中も、排気ガスでぼやけた国道も、前世の記憶を呼び起こせば、たちまち草深き山里となり、絶景の尾根道となる。

 あざみ野から鎌倉までの2年半の旅(連載)は、そんな楽しい時間旅行であった。その余韻も覚めやらぬままに、今回地名推理ファイル・街道を往くシリーズ(いつのまにかシリーズになっている)の保存版特別編として、大山街道を歩くことになった。

 そのきっかけは、同じく連載記事「夢の吹く丘」4月号でご紹介した『定年草枕』の著者、半自由人・津屋英樹さんとの出会い。インタビュー後に、歴史好き、旅好きの二人が意気投合し「じゃあ、一緒に歩きましょう」と、企画ができあがった。私にとって人生の大先輩。街道歩きにおいても、鎌倉街道中道、上道と踏破、もちろん大山街道も赤坂御門から伊勢原まで歩かれ、頂上阿夫利神社まで行かれている。これはもう先達、御師…いや、御師匠である。期待に胸はずませてこの時を待った。

 そして、決行なったのは、爽やかな秋の気配が漂い、紅葉が目にしみる10月23日火曜日のことである。
荏田宿の町並
 「スタート地点は、ここにしませんか?」

 早渕川と布川の交わるあたり、庚申塔のお堂の前で振り返り、後ろの津屋さんに同意を求める。

「そうですね。いいんじゃないですか。宿場の入口ですし」

 住所は、青葉区荏田町と都筑区中川3丁目のちょうど境。ここが大山街道・荏田宿の入口となる。江戸を発った旅人が、最初に泊まる宿場がここになる。

「昔は、ここに大きな榎木があったそうですね」と、津屋さん。

「一里の榎ですね。荏田宿のシンボルだっただけに、そうとう大きな木だったらしいですね。なんでも中ほどに穴が空いていて、コウモリが住んでいたそうですよ」

 その大榎のあった場所には、現在ライオンズマンションが建っている。庚申塔の真ん前がそうだ。これより、有馬方面に歩を進めれば、早渕川沿いに、旅人のノドを潤おしたであろう霊泉・不動の滝があり、牢場谷戸だの、血流れ坂だの、といった物騒な地名の場所がある。

「じゃあ、行きますか」

 大山に向かう私たちは、もちろん、それとは逆に向かって進む。庚申塔に手を合わせ、道中の無事を祈ったあと、布川に沿って荏田宿に入る。

  ここから国道二四六号までは、車が2台すれ違うのがやっとの道で、いつも車が数珠つなぎになっている。歩道もないので、のんびりと宿場の情景を思い描きながら歩くなんてことは、到底できない。歴史散策のグループにとっても、大人数で説明をしながら歩くことができないという大山道の難所(?)である。

  村絵図には、この道の右側に、小松屋、現金屋、油屋、いずみ屋、餅屋など14軒が、左側には、大工、枡屋、たび屋、薬屋など13軒の商店や旅籠が記されている。

  当時、質屋さんだったという現金屋さんは、呉服や学校の制服を扱うお店として、今も営業されている。数年前まで同じ場所にあったが、気がついたら一本お隣のバス通りに越されていた。 ということで現在、現金屋さんのあった場所は「JA横浜・荏田支店」になっている。その斜め向かえが、江戸時代後期の画家で政治家(田原藩=愛知県、渥美半島)の家老、渡辺崋山が泊まったという「枡屋」だ。

「この蔵のある家がそうですかねぇ?」と津屋さん。

「たぶん…絵図だと、そうなりますね」

 崋山は、天保二年(1831年)の九月に、相模の国(神奈川県方面)を5日間に渡って旅した。その時のことを『游相(ゆうそう)日記』に残している。

 その日記には、荏田村の風景や同宿した客に絵を描いてあげた話、枡屋の主人が「近頃、荏田村周辺に狼が出るので、戸締まりを固くしている」とか「馬の競り市が近くである」など、荏田村の様子を語ったことなど、詳細に書かれている。

 因みに、枡屋さんは明治二十八年に東京に移られて、現在は「満す源(ますげん)」という蒲焼屋さんをされている。住所は、品川区大井5丁目七の三。界隈じゃ結構評判の鰻屋さんらしい。

迷わず行けよ
「馬の市は、真福寺の裏で最近まで行われていた、という話を聞いたことがありますよ」と、最近仕入れた不確かな情報を津屋さんに伝える。

  真福寺は、荏田宿の道の途中の丁字路を左に折れ、赤田屋酒店の信号を渡った向こう側にある。

「ほ、そうですか」と津屋さん。

「このあいだ通った、鎌倉街道の直線の尾根道がそうだと思います」と、更に不確かな想像を、さも真実のように語る。私の悪い癖だ。

「じゃあ、剱神社の裏の第三公園のある尾根道ですね」

 さすが、鎌倉街道・中道を踏破しているだけあって、話が早い。

「ところで、剱神社の辺りを柚木(ゆのき)谷戸といいますけど、ユズの木が多かったんですかね?」と津屋さん。

「いや、昔は、エノキ谷戸って呼んでいたらしいですよ」

「エノキ?ほぉ、さっきの一里の榎のことですか?」

「いや、剱神社の参道のところにも、大きな榎があったそうなんです。今の荏田小学校になりますか」

 エノキが、いつ、どういう経緯でユノキに変わったのかは定かではない。エノキからユノキ…、あっ、そうだ。 アントニオ猪木が引退のときに言った座右の銘、「道」という詩だが…

この道を行けば どうなるものか
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
踏み出せば その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ

誰かが、一休さんの詩だと言っていたな。本当は、哲学者の清沢哲夫氏(愛知県碧南市の宗教家)の詩だ。最後は「わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ」と少し違っているけど。それにしても、なんで一休宗純なんだろ…。

「高丸さん、車が来ますよ」

「お、おおっと!す、すいません。(しまった。エノキとユノキで、イノキの言葉を連想してた…。やばい、やばい、迷わず行けよだよ。まったく」

間抜けな私と違い、お師匠は常に冷静である。

「あっ、常夜灯ですね」

常夜灯は、国道246号に出る二軒手前の民家の庭に建っている。高さ二・三メートルの立派な常夜灯だが、門の中だから、知っていないと通り過ぎてしまう。

江戸後期に二度火災にあった荏田宿では、火伏せの神様である秋葉神社を勧請して、防火のためにこの常夜灯を建てた。台石に「中宿」と刻んである。入口から下宿、中宿、上宿となるので、ここが宿の中心になる。

虚空蔵大菩薩
国道246号を渡る。大山道は、すぐ次の信号を左に直角に曲がり小黒谷戸へと続く。

「高丸さん。真福寺が元あった場所は、この辺りじゃないですか?前に来た時は、結局分からなかったんですけど」

「あ、それならこっちです」

 信号を左ではなく、反対に右に曲がる。少し行くと火の見矢倉が立っている。大正十一年に、現在の場所(観音堂)に移るまでこの場所に真福寺はあった。今は自治会館が建って…いたはずだが、一年ほど前に火事で焼けて、現在新しい建物の建設中である。

「ここにあるお墓は、真福寺と関係あるんでしょうかねぇ」

 津屋さんに言われて振り返る。自治会館の目の前、村田金物店の隣に、鬱蒼とした林がある。墓地はその上にあった。二人して登ってみたものの、それらしい説明はどこにも書いていない。

「あの御堂はなんですか?」津屋さんが奥を指差す。

「あっ、虚空蔵菩薩ですね」中を覗くと、石仏があり、台石には『虚空蔵大菩薩』と彫られていた。

「そうかこれか…、これがそうですよ津屋さん」

「えっ?この虚空蔵菩薩がどうかしたんですか?」

「この隣に大きなマンションが建っていますよね。アルスあざみ野っていうんですが、このマンションが建つ前は、お花見で有名な山だったんですよ」

ふり仰ぐと、樹木の間からマンションが見える。

「その山に、虚空蔵菩薩が祀られていたことから虚空蔵山と呼ばれていたそうです」

「じゃあ、この菩薩様がそれですか」

「すぐ隣にあるということは、そうじゃないですかねぇ、確かじゃありませんけど」

「何と書いてあるんですか?」津屋さんが像に顔を近づける。

「四国阿…あ、阿波ですね。四国霊場八十八箇所の十二番のことでしょう。その下に焼山寺とあります」

「ほぅ!すると隣の二世安楽也の文字は、この世とあの世との二世に渡って幸せに暮らせますようにという意味ですね」

 あとで調べたら焼山寺の本尊は虚空蔵菩薩であった。

「どんな謂れがあるんですかね?」

「さぁ?わかりません。そういえば、虚空蔵山の頂上には一本の大きな松があったそうです。その横に古い街道が通っていたということを観福寺の方から伺いました。あと、マンションを建てるときに縄文から中世にかけての遺構や遺物が出土したそうです」

 観福寺は虚空蔵山と峰続きで、こちらと反対側の市営地下鉄の線路近くにある。観福寺の場所も含め、この一帯からは遺跡が発掘されている。

「その古い街道というのが気になりますね」

「たぶん、鎌倉道じゃないでしょうか。荏田から尾根伝いに新石川の驚神社に降りて、たまプラーザから登戸方面へ抜けたんだと思います」

「ほぉ、じゃあ枡形山城の稲毛三郎なんかも、その道を使ったんじゃないですか?」

「そうかもしれませんね」

 墓地を出て道を戻る。さっきの信号を渡り、セブンイレブンの前に出る。

「絵地図によると、この辺りに高札場があったんですよね」と、津屋さんが辺りを見回しながら尋ねる。

「そうですね。この交差点の角辺りじゃないですか。ここには他に馬頭観音の道標と、百たたきの石があったそうですよ」

「百たたきの石ですか?」

「軽い罪を犯したものを、その石につかまらせて、ムチで尻を百回たたくんですよ。『このバカモンがーっ』って罵倒されながらムチで叩かれて、罪人は泣きながら観音(堪忍)してください。と言ったとか、言わなかったとか」

「はははははは。なるほど、それで罵倒観音ですか」

「へへへっ、すいません。でも、最初の方は本当ですよ」

 その石は、工事中に重機が割ってしまったとそうだ。

江田源三は誰?
 国道二四六号と平行して大山道を進む。「この道の途中に阿夫利神社と書かれた灯篭が建てられていて、旧盆から8月いっぱい灯りが点り道を照らしている」と、5年前の地名推理ファイル・荏田編で書いた。あの時の取材以来、その灯籠を見ていない。

「あの山が荏田城址ですね」

 津屋さんの指摘どおり、道の右側の鬱蒼とした雑木林の小高い山は、荏田城の跡である。

「義経の家臣の江田源三が建てたといわれていますけど、本当ですか?」

「江田源三広基(ひろもと)ですよね。さぁ、どうなんでしょう?」

「源平盛衰記や義経記には、義経の家臣として出てきますでしょう」

「出てきますけど、義経記には、信濃の住人となってますよ」

「そうなんですか?そういえば、この間の大河ドラマには、出てきませんでしたね」

「タッキーがやった『義経』ですね。そう言えば、出てきませんでしたね。でも、昔の大河には出てきましたよ。緒方拳が弁慶をやった昭和 41年のやつ。松本朝夫さん(現・松本朝生)という俳優が演じてました」

「よくそんな古い時代の大河ドラマを覚えてますね。まだ小さかったんじゃないですか?」

「幼稚園です。実を言うと、このあいだ、ASN(あおば学校支援ネットワーク)に歴史講師として呼ばれたときに調べたんですよ。こういう裏話を出したらウケルんじゃないかなと思って」

「それで、受けたんですか?」

「ハハハハ、ふぅ〜ん。残念ながらすべりました。写真まで用意したんですけどねぇ…。津屋さんは知ってますか、松本朝夫さん?ウルトラマンとか仮面ライダーとかにも出ていたんですけど…」

「さぁ、そういったものは、ちょっと苦手ですねぇ」

「で、ですよね。ははは…あっ、ここが小黒(こぐろ)のバス停です」

「江田源三が義経から小黒という名馬をもらって、その馬をつないだといわれているのが小黒谷(やと)でしたね。確か…」

「そういう話も残っていますね。あと江田源三は弓の名手で、城から放った矢が落ちた場所が矢崎、矢の羽が落ちた場所が矢羽という地名が、柚木の交差点から歴史博物館に向かう道の途中に残ってますね」

「ほぉ、柚木の交差点の向こうですか。矢が、そんなところまで飛んだのなら、弓の名手に違いない」

 バス停を過ぎると、道は再び246に出た。ここで少しだけ246の歩道を歩く。

「あっ、ウルトラマンに出てた、で思い出したんですけど(まだ、そんなことを言ってる。)同じ昭和41年の「悪魔はふたたび」という回で、この 246号と江田駅が出てくるんですよ」

 車の騒音で聞こえなかったのか、津屋さんは、どんどん先に行く。246号の歩道を歩きながら、キョロキョロと、何かを探している様子だ。

「津屋さん、何か探し物ですか?」

「確かこの辺りに、庚申塚があったはずなんですけど…。たしかフェンスか何かの向こうだったような…」

 言われて、私も一緒に探す。そこは他人の家の庭だ。囲いの間から覗いているから、知らない人が見たら通報される恐れもある。

「ないですね」

「う〜ん、そのようですね」あきらめて、回りを気にしつつ前に進む。

 城南信用金庫の前を過ぎ、歩道橋の脇を抜けると、大山道は、ふたたび斜めの路地に入る。右側から荏田城址の雑木林が迫っていて、旧街道の雰囲気をわずかながら残している。

「あっ、ありましたよ。庚申塔」

 路地を入って数メートルのところ、フェンスの中の草むらに、庚申供養塔は立っていた。

「旧大山街道荏田宿 小黒谷(こぐろやと)(別称矢倉沢往還 青山街道)至江戸 至長津田宿 庚申供養塔 寛保二年(1742)壬戌(みずのえいぬ)十一月五日」と、立て札に丁寧に書かれていた。     

                                               つづく
  


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