■ひろたりあん通信バックナンバー
 ▼2008年4月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■街道を往く 大山街道編 5 

五箇村用水
 市ヶ尾の地蔵堂から猿田坂(猿坂)を下りきったところで、大山道は、県道12号線「横浜上麻生道路」の旧道と交差する。この旧道は、かつて日野往還と呼ばれていた。

「日野往還は、横浜開港のときに絹を港まで運んだ絹の道のひとつだったそうです」

「ほぉ、絹の道。シルクロードですね」

「矢倉沢往還と、そのシルクロードが交差する交通の要衝ですから、この十字路は『中里銀座』と呼ばれるくらい賑わったそうで…おっと、危ない」

 県道を横切ろうとしたら、右手から市ヶ尾駅行きの路線バスが回りこんできた。後に下がってやりすごす。下がった右角には緑色の目の粗いネットに囲まれた赤い三角屋根の平屋の建物がある、「ちびっこの家」という学童保育の施設だ。(この建物はこの春、市ヶ尾小学校近くの遊水地隣に移転した)

「この『ちびっこの家』の場所には、石橋屋さんという茶屋を兼ねた旅籠がありました」と私が説明する。

「ええ、知っています。二階建ての大きな建物だったそうですね。明治十五年に火事を出して焼失してしまったと聞きました。そのあとに平屋の建物が建てられて、一時は小料理屋もされていたとか…」

 津屋さんの方が詳しい。その石橋屋さんから、県道を挟んだ向かいに同じく「小石橋屋」があった。その隣の角にあった「綿屋」という旅籠は、今も当時のままの姿で残っている。旧街道の観光地などでよく見かける「出梁(だしばり)造り」の重厚な建物である。明治一五年の火事のときに類焼して、建て直したそうだが、それでも百二十五年以上の歴史がある。

「綿屋さんの屋号は、旅人を綿のように暖かくもてなすという意味があったそうですよ」

「ほぉ、いいですね〜。石橋の方は、ちょっと硬いですけど…」

「石橋は、この辺りを流れていた五箇村用水に石の橋が架かっていたからだそうです」

「ごかそん…?五つの村ですか?用水というと灌漑用ですか?」

「ええ、上鉄(かみくろがね)村、中鉄村、下鉄村、大場村、市ヶ尾村の五つの村です。
 これらの村々は、すぐ脇を谷本川(鶴見川)という大きな川が流れているにもかかわらず、地形的な条件から田畑に水が引けなかったそうです。そのため上流の下麻生村に堰を設け、五つの村に水を導いたあと、川和村との境で放水する灌漑用の水路を作ったんです」

 この用水路をめぐっての争い事が記録に残っている。

※津久井在住の歴史研究家・村田公男さんは、当時この地の代官であった小泉次大夫の地検帳、水田の石高記録などの文献から、用水が開削されたのは、慶長19年ではないかと推測されている。

「用水路は県道に沿って流れていたそうです。綿屋さんの反対側ですから、この真下ですね」

「じゃあ、県道は今よりもさらに狭かったんですね」

「そうみたいですよ。杉浦さん…、あ、綿屋さんなんですけど、杉浦さんのおばあちゃんからお聞きしたんですけど、ここにバス会社の人が立って、すれ違うバスの誘導をしていたそうです。用水路が塞がれたのは、田園都市線が開通して、しばらくしてからだそうです」

「昭和40年代前半まで残っていたんですね。う〜ん、約四百年前に造られた水路とは大したものです。こういった治水の歴史はきちんと検証して、伝えていかなければいけませんね」

「そうですね。田園都市とは名ばかりになってしまいましたが、用水の恩恵を受けた鉄町には、今もなお田園風景が残っていますからね。鉄小学校には郷土資料館があるから、水路の地図を作って、当時のお百姓さんの苦労を子ども達が学べるようにしてもらえるといいですね」

花崖山房と八雲神社
「お百姓さんといえば、土を愛し、農村をこよなく愛した廣田新聞店の創業者、廣田花崖さんの山房(書斎)はこの近くですね」

「そうです、そうです、こっちです」

 旧道の十字路のすぐ右、上市ヶ尾の信号まで津屋さんを案内する。

 「そこの『蕪木輪業』という自転車屋さんの左側の路地、その奥に見える茶色い三階建てのビル、それが廣田新聞店の本店です。花崖が大正八 年に建てた山房は、その背後の高台にあります」

「なるほど、ここで執筆活動をされていたんですね」

「花崖は、神奈川新聞(当時、横浜貿易新報社)の記者でもあったので、執筆活動だけでなく、ここからサイドカーに乗って、東へ西へと取材に出かけていたんですよ」

「ははは、宮澤さんもここから、東へ西へ取材に出ているじゃないですか」

「と、と〜んでもない。比べられるものじゃないですよ〜。あっ、そ、そうだ津屋さん、トイレは大丈夫ですか? 本店の外にトイレがあるんですが…」

「いや、まだ大丈夫です」

※大山道散策される皆さん、もしも、この辺りでトイレが必要になったら、ご自由にご利用してくださいね。従業員に一声かけてもらえば結構ですから。

「あ、あれが八雲神社ですね?」

「そうです。八雲神社…もとは天王社と言いました」

 蕪木輪業の右手にも、一メートルほどの狭い路地がある。信号から斜めに入るこの小さな路地が八雲神社の参道である。

「六年前、神社に手を合わせると、背後の市ヶ尾横穴古墳を参拝していることになる。このことから、八雲神社は、横穴古墳に埋葬されたかつてこの地を支配した古代の豪族たちを祀る祭祀場だったのかもしれない。なんて推理を書いたんですけど…、最近新しい発見をしたんですよ。じつは横穴古墳のすぐ後には、小黒谷遺跡(小黒公園)があるんです。その隣には赤田の古墳群。さらに、八雲神社から横穴古墳のラインをずっと伸ばしていくと、荏田の観福寺遺跡まで、なんと古代遺跡がいくつも繋がっているんですよ」

「ほぉ、何か関係があるんですか?」

「さぁ…?それが…、でも不思議でしょう。何かあるような気がするんですが…」

「ミステリーですな〜。・・・それより私は、さっき話していた絹の道のほうが気になりますねぇ。絹の道はいったいどこに続いているんですか?」

「えっ、あ、ああ…どうなんでしょう?行ったことがないので…。ただ、絹の道は、他にもいくつかあったらしいですよ。たとえば有名なところでは、八王子から長津田へ抜けるルートとか…。そういえば、八王子の鑓水(やりみず)というところに絹の道資料館があるんです。生糸で大儲けした豪商の屋敷跡だったとか…」

「絹の道資料館?・・・そうですか〜。うん、あ、じゃあ先に進みましょうか」

 さきほどの十字路に戻り、綿屋の建物の横の路地から上麻生線の新道に出る。本来はそのまま谷本川に向かい、現在架かる橋よりも少し下流にあった『川間橋』を渡るのだが、道も橋もすでに消滅しているので、迂回して信号を渡り、新しい川間橋を渡る。

「大場川との合流点だから、川と川の間で川間橋なんでしょうね。またの名を三文橋といって、三文の通行料を取ったそうですよ」

 

「知っています。渡邊崋山の『游相日記』には(橋あり銭とりて渡す。もののふはあつからす)とありますから、武士は無料だったんですね。それから葛飾北斎の大山道という浮世絵にも描かれています」

 やはり、津屋さんのほうが詳しかった。    

                                          (つづく)

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