■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2008年4月号
夢の吹く丘 〜都筑の丘のすばらしき人々〜
漫画家  本 そういち さん

 高校生の頃、アニメーション映画を作りたくて「アニメーション研究部」を立ち上げました。まだアニメが一般に認知されていない時代。たぶん、名古屋で最初だったのではないでしょうか…。

 みんなにアニメのことを知ってもらおうと、東京まで出かけ、東映動画、虫プロ、エイケンと、大手のアニメ制作会社を取材してまわりました。

 秋の文化祭、自分達が描いたセル画と一緒に、その時の取材内容をB紙(名古屋では模造紙のことをB紙と呼びます)4枚に書いて発表しました。

 考えてみると、現在(いま)もまったく同じことをしています。複雑な心境です…

漫画と芝居
 同じように学生時代に「アニメーション研究会」を立ち上げた方がいます。しかし、私のように本末転倒することなく、才能をいかんなく発揮され、現在プロの漫画家として第一線で活躍されています。 本(もと)そういちさん、連載を抱えられ大忙しの本先生の自宅兼仕事場にお邪魔しました。


 「出身は川崎市高津区なんですよ。二子新地の商店街で親父が床屋をやっていまして、本当に地元ですね。当時は、絵が好きで絵ばかり描いていました。中一くらいからプロの漫画家の原稿を見たりして、逆に高度なものを知っていたので、(漫画家に)なれるとは思っていませんでしたね」 

 プロの漫画家とは、『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』の松本零士先生。私たちの世代の憧れです。

「今考えるといい時代で、先生の家に電話帳調べて探して、仕事場見に行ったりとか
デパートの原画展に行って、朝から晩までずっと原画を見て、どうやって描いているんだろうな?とか勉強しました。漫画家になるための参考本とか無い時代だったので自分で探すしかなかったですね」

 確かにそうですが…。

「高校の時は、自由が丘に「釣りキチ三平」の矢口高雄先生が仕事場を構えているのを見つけて、学校帰りによく通ってましたね」

 漫画家志望の地方出身者が聞いたら嫉妬に狂うでしょう。

「高校卒業したら、(矢口先生は)アシスタントに来るつもりだろうと思っていたらしかったんですけど、高校時代に僕はデビューしちゃっていたんですよ」

 高校一年の時に小学館に、原稿を持ち込んだのがデビューのきっかけでした。

「小学館でアシスタントをやらないかって言われて、岡崎つぐおさんという新人の先生のアシスタントに行くことになったんです。当時、僕は老け顔だったので(笑)、岡崎先生も高校は卒業していると思っていたみたいで…、じゃあ、高校の授業に支障がないようにということでアシスタントをすることになったんです。アルバイトみたいなものですよね。
 で、高校一年から一年くらい、学校終わったら電話して、仕事があるって言えば西武新宿線の鷺宮まで行って、朝まで手伝って、授業中寝るみたいなね。僕のデビューは17歳なんですけど、岡崎先生も、もう教えること無いねっていう感じで、付属校だったので、デビューしても、大学行きながら連載やったりしていました」

 17歳でデビュー。いきなり、二つの出版社で新人賞を受賞しました。夜更かしでテレビ見たり、漫画読んだりして、授業中居眠りしていた誰かさん(私か…)とはワケが違います。 人生の分れ道は、とっかかりから違ってたのですね…(;´д`)トホホ

「その頃の僕は、はっきり言ってアルバイトで漫画描いているという感じでしたね。自分の中では、どうしても芝居をやりたかったんで、一年のうち6ヶ月は漫画を描いて、貯まったお金でお芝居をするという生活をしていたんですよ」

 漫画家志望の地方出身者には、聞かせられません。

「ところが、22歳くらいですか、小学館から講談社に移って、その時の担当さんともめて、漫画家なんて嫌だなと思って、大学休学してアメリカに行っちゃたんですよ。一年間くらい放浪の旅をして、ロサンゼルスからずーっとバスのチケットを買って、当てもなくまわって
最終的にはビバリーヒルズのお寿司屋さんでバイトをしたりしてました。アメリカ大陸の地図も知らないで行きましたからね。英語も話せなくて、飛行機の機内で【やさしい英会話】と【地球の歩き方】の本を読んで、『やべ、でかいなこの国』と思って急に慌てたという(笑)」

生きることがテーマ
 妹さんの「行っちゃえば、なんとかなるよ」というアドバイス?もあったそうですが、なんと言っても運が良かったのでしょう。

「飛行機で隣に乗り合わせた人が、本さんといって、浅草の陶器問屋の息子さんで、歳も同じくらいで、すごい仲良くなったんです。『僕はこれからハワイに行って遊んでから、ロサンジェルスに行くんだけど、どこ泊まるの?』って、ホテルを教えたら、そこに訪ねてくれて、そうしたら「こんなやばいところにいたらいけないよ」っていうことで、グレンデール、レーガン大統領が生まれた町で、ビバリーヒルズの次に高級な住宅地で、そこで画家をやってる人の家にその人がホームステイしていたんですけど『部屋が空いているのでおいでよ』っていうことで、そこに1ヶ月くらい滞在しました。

 往復のチケットだけ持って、行き先も決めず、帰る日も決めず、何がしたいっていうこともなく…。旅の途中で気がついたんですけど、こういった旅は目的を決めちゃいけないんだな。ようするに生きるっていうことがテーマだったんですよ。どうとでも生きていられる。そういう自信をつけるために行っていたんだなってことですかね」

 帰国後、役者をめざしてTBSの俳優養成学校の緑山塾を受験しました。

「まだ、役者やるつもりだったんで、そこを出たら芝居の事務所に入ろうと思ったんです。
そうしたら、最初に来た仕事っていうのが「ママはアイドル」っていう番組を漫画にしないかという話だったんです。自分としては役者につながると思うから、じゃあやろうと思って引き受けたんですけど…、そこから結局漫画の仕事しか来ないんですよ」

 この頃、世田谷に住まわれていた俳優の羽場裕一さんと知り合います。「夢の吹く丘」第二回に登場いただいた羽場さん。舞台俳優だった羽場さんが、テレビドラマにデビューするきっかけとなったのは、じつは本さんだったのです。

「昔の役者仲間が芝居をやっていましたんで。誘われてよく観に行ったりしていたんで、そんななかで、羽場さんとも知り合えたんです」

 当時、多摩川の花火大会を見るために、二子新地の本さんの実家にそういった仲間が集まったりしたそうです。

第二の漫画家人生
「あるとき、女優の室井滋さんと飲んでいて、『室井滋さんの事務所に入りたかったんですけど、マネージャーさんに断わられちゃった』って言ったら、室井さんから怒られて、『あなたね、どれだけの人が漫画家になりたいと思っているのよ。シッカリしなさいよ』って言われて、、あっ、これは漫画家をやれっていう人生の流れなんだなと…」 

 当時、まだアメリカに友達がいたこともあり、一年のうち三分の一くらいはアメリカと日本を行ったり来たりしていました。

「漫画で勝負するならアメリカにいたんじゃダメだなと思ったんですよ。漫画は日本のものだと」

 そこから第二の漫画家人生が始まりました。

「二年間くらいまったく描いてなかったんで、タマっていたんですね。それまでは状況が恵まれていて、それまで手に入れた技術で、運が良く漫画で食えていたというのが実情だったんですけど、それからは自分で考えて、やりたいものを描くという感じで描き始めたんです。プロとして成績を残さないといけない、ヒットを出して、その雑誌に貢献しなくちゃいけない。だから、人気を取るような作品を描こうとして、結構苦しい時代だったですよ。

 あるていど読者を惹きつけるコツっていうのは、マージャン漫画で学びましたね。それを10年くらいやってまして、そろそろいいだろうと…。 一般の普通の雑誌でもう一回勝負を賭けようと思って、さて何をやるかなと思ったときに、アメリカから帰って来たときに描いた社会派の作品。そういうのが自分には一番描きたかったことだと思ったんです」

 タイミングよく、ドキュメンタリー番組『プロジェクトX』の漫画化という企画が入りました。

 「その作品をちょうど双葉社の漫画アクションの編集者が見ていまして、うちの新創刊でも重たいヘビーな作品をやりたいということで、じゃあ、拉致問題をやろうということになったんです」

『めぐみ』
 『奪還』。拉致被害者・蓮池薫さんの実兄、透さん原作。続いて、今もなお北朝鮮に残されている横田めぐみさんのご両親、横田滋さん早紀江さんが書かれた『めぐみ』の連載が始まりました。

「原作があるといっても、全部一個一個取材をし直してますんで、ドキュメンタリーと名のつくもの、北朝鮮拉致問題の『奪還』(原作:蓮池透さん)『 めぐみ』(現作:横田めぐみさんのご両親) 、そして脳外科医の福島 孝徳先生を描いた『神の手を持つ男』も全部そうですけど、完全に毎回取材しているんですよ。毎回ご本人に会って、話しをもう一回聴き直して、それをストーリーに起こして、もう一回見てもらって、本人の確認を取って、セリフの確認を取って、絵が全部入ったら、もう一回送って絵の確認を取って、そういう作業をやっているんで、少なくとも拉致問題のやつは、2回ご本人にお会いしました。

 横田さんでいえば、川崎のマンションに2回行って、それを月に2本描いているわけですから、4回くらいやりとりするんですね。従来、漫画家が月に4日間も足を運んで取材に行くなんていうスタイルはありえないんですよ。ほとんどライターさんとかに取材をやってもらって、あとは自分がまとめるのが普通なんです」

 自分が取材して、自分が生の声を聞かないと納得できないタイプだと本さん。

「そのことによって他の人には描けない作品が出来るんですよ。福島先生の作品でいえば、アメリカまで取材に行きましたし、『札幌で講演があるからおいでよ』と言われれば札幌に行きました。そういうことをやらしてもらえる作家という形で、各出版社に認識を得られたんで、今でも依頼が来るのは、各雑誌で社会に対して、こういうものをやりたいという意識を持った部分としてですからね。有難いことですね。ハードですけど(笑)」

 マスコミには流れていない、テレビでは取り上げられないようなエピソードを誰よりも先に知ることもあったそうです。

「蓮池薫さんのパスポートには、出身が新潟、国籍は北朝鮮と…。 テレビよりも先、スクープだったんですよ。蓮池さんから、情報としては出さないでくれと言われたんですけど…。  今まで漫画っていうメディアはジャーナリズムの世界には入れてもらえてなかったんですね。協同で情報交換をする現場があるんですけど、このことがあって、やっと仲間に入れてもらえたかな。 僕に続いてこういう漫画を描きたいという人がきっといるはずですからね。そういう人が追随すれば、こういうジャンルが確立されるかな。新しい漫画の形態ですね」

 今年3月、政府の拉致問題対策本部は、『めぐみ』のアニメを制作しました。

「アニメと一緒に翻訳版を内閣府が配るんですよ。もう英語版と中国語版と韓国語版が出来ているんですけど、これが世界でどう受け取ってもらえるかですよね」

 

『夢幻の軍艦大和』
 主人公の17歳の高校生が意識不明となり、その魂が昭和16年、戦時中の帝国海軍軍艦『戦艦大和』の甲板にタイムスリップしてしまう。その後、眠っている間だけ魂がタイムスリップするようになってしまった彼は、「ゲーム感覚」で、連合艦隊司令部の人間を動かし、歴史を塗りかえようとする…。現在連載中の『夢幻の軍艦大和』は、そんな奇想天外なストーリーです。

「最初はドキュメントで第二次世界大戦を描こうと思ったんですけど、雑誌が講談社というメジャー誌だったんで、よりエンタテインメント性を求めるという意味で、ドキュメントの部分を取り外そうと、あくまでもフィクションでいこうと、楽しく読ませるというのも漫画の基本ですからね。 僕しかできないドキュメント色の濃いエンタテインメントをやろうということで、ああいう架空戦記という形になったんです。基本的にはテーマが根っこにあって、最後のテーマを描くために、いま途中を描いているんです。 同じ講談社で『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ著)ありますからね。それも意識していますよ。高度な人間ドラマとなったら、かわぐち先生には勝てないですからね。あくまでもこっちは少年誌に近い、エンターテインメントでテンポを速くしています。あれをやったことで戦記物を読むファンが増えてきたことが嬉しいですね」

 『神の手を持つ男』の連載が終わると、美少女が太平洋戦争で活躍した日本が誇る名機、あの零戦を操縦してしまうという物語、『零戦少女』が始まります。

「戦闘機を戦闘機ではなく、乗り物を運転することの楽しさをテーマにしたアクションなんですよ。とくに他人(ひと)が手を出しにくいものを、自分が消化してやるということには自信がありますね」

 自分もかつて夢見た漫画の世界。ついつい長時間のインタビューになってしまいました。最後に本先生のこれからの夢をお聞きしました。

文化交流の受け皿
「僕が漫画家を目指していたときより衰退してきているんですね。ようするに、映画やゲームや新しいメディアがいっぱい出てきているんで、みんな漫画家をめざすということがなくなってしまったんです。さらに漫画の市場自体が、ブックオフとかの影響があって、一攫千金が無くなってきているんですよ。紙という媒体がこれから生き残れるかどうかも結構微妙なところで、出版社も苦しい状態なんですね」

 確かに、漫画やアニメは日本の文化として海外でも認知されていますが、漫画雑誌や単行本を自分のお小遣いを出して買おうという子供たちは減ってきています。

「その中で漫画というのは、紙にインクをのせて描くというアナログのシステムだと僕は思っているので、そういうアナログの技術を継承していくようなことをしていきたいんですよ。
うちのアシスタントたちには、本当に昔ながらのアナログな教え方というのか、アナログの技術を徹底的に教えているんです」

「本当に純粋な漫画を描く人たちが段々いなくなっているんですよ。パソコンで絵を描いて、色もパソコンで塗るようなね。どんどん技術が失われちゃうんで、出来ればそういう人たちを残したいと思うし、それが日本の若者だけでは成り立たなくなってくるかもしれない。日本の今の若者達は恵まれているんで、苦労してまで漫画家には、なりたくないよっていうのが結構いて、厳しいことを言うと辞めちゃう。ちょっと苦しい状況になったら辞めちゃう。

そんな状況で、まわりに目を向ければ、アジア各国、中国や韓国には、ちょっと前の日本のように、夢を持ってやりたいという人がいっぱいいるんですよ。ただ、それを受け入れられるような、文化交流としての受け皿が無いんですよ。
 純粋に好きなことのために頑張る子はいっぱいいるんでね。我々にとってはメリットあるんですよ。ですから、そういう子たちを受け入れられるような組織を作りたいと今思っているんですよ。中々簡単に行かない問題もあるんですけど、誰かが突破口にならないと出来ていかないんで、自分がもうちょっと現役のところから手が離れられるようになれれば、やって行きたいなと思ってますけどね」

 衰退してきている「漫画」という日本を代表する文化のために、未来に向けた新しい枠組み、文化交流の受け皿を作っていきたいと語る本さん。

「未来に向けて枠組みを作っていかないと、次の世代に夢がなくなってしまうんで、そういう文化っていうのは衰退しますよね。自分がいい時代に生きて漫画家になれたわけですから、そういうことの恩返しができればと思っていますね」

                                               宮澤

 

 2年前、私も横田さんご夫妻のお話をお聞きしました。筆舌に尽くしがたい30年という長い歳月。苦悩の日々を切々と話され、そのあと、体調をくずされ途中で退席された滋さん。その疲れた表情は忘れられません。もう時間がないのです。 今まで関心の無かった人にも、ぜひアニメ『めぐみ』を見ていただきたい。

 拉致問題が一刻も早く解決することを私も心から願っています。


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