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昔の話である。仕事に疲れて夜帰宅する。
しかし家の中は空っぽで、食卓にメモが置いてある。そこには「さんわ」と三文字だけ書かれている。
さてこれは何の暗号だろうか?…、などと考えてはいけない。「さんわ」は当時近所にあったスーパーの名前だ。
「お仕事お疲れさま、三和まで買い物に行って来るので、待っててね」という愛情のこもった書置きを期待したわけではない。しかしたったの三文字に省略されるのは、いささか寂しいではないか。いくら「倹約こそ賢妻の務め(すなわちケチ)」を信条にする妻でも、書置きくらい倹約するなよ、と思ったのだ。
同様の倹約メモのバリエーションに「さんぽ」というのもあった。さんぽ、すなわち散歩だ。当時飼っていた犬の散歩だ。夫に対する以上の愛情を注いだ愛犬との散歩には、彼女の倹約精神は働かなかったらしく、通常小一時間をも費やすのだが、その間、腹を空かした亭主は「おあずけ」のままだ。
時は移ろい、愛犬が天寿を全うし、妻の「さんぽ」の習慣は霧消した。考えるに、人が散歩自体を目的に散歩することは少なく「散歩がてら」という慣用句がそれを証明している。目的が失われれば習慣も消えるのだ。
今回、長担当が「私の散歩術」を寄稿した。彼の提案は、無目的の散歩…ただし無目的の中に発見への期待が込められていて、それを彼は冒険ならぬ「望見」とした。
妻に助言したい「肥満解消のために散歩でもすれば?」と。しかし肥満という言葉に過剰に反応する恐妻に対するその助言は、私における「冒険」なのである。
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六月はわれわれ新聞配達員にとって地獄の季節である。来る日も来る日も雨。晴天の時と同じように配達したら濡れてしまう。われわれは絶対濡らすもんかという決意と、どうか濡れませんようにという祈りのちょうど真ん中で、降りしきる雨の中、指先から新聞を離してゆく。一部ずつ、一部ずつ。それはひどく心身を消耗させる。
ところが、である。どうしたことか、今年は雨が降らない。暦の上では入梅をとうに過ぎたのに、太陽は燦々と照りつけ、雨ではなく汗が、配達中の私の身体をびっしょり濡らす不本意な日々が続いている。ひと雨ごとにむっとする湿気とともに夏を連れてくるいつもの梅雨は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。私はまるで、ぶらっとコンビニに行く格好でお見合いの席に座らされているかのような、何とも居心地の悪い気分のまま、毎朝空を見上げる。おーい、空よ。たまには威勢よくザーッとやっちゃっていいんだよ。いや、やっぱりそれも困るんだけどさ。私を無視して空は白々と明けてゆく。
ふと考えてみると、この居心地の悪さは、ずーっと昔から、この時期は雨が降り続いてきたことからきているのだ。私たちの体はそのリズムをおぼえている。いや、それどころか、有史以来、日本人はこの時期、雨と付き合いながら暮らしてきたのだ。だからこそ、雨音の聞こえない六月に不安になったりするのだろう。
私たちの暮らしは、この数十年で劇的に変わった。私たちの住むこの辺りも、東急田園都市線が開通し、藤が丘、あざみ野、美しが丘…と新しい地名のもとに新しい街ができあがった。

でも、と私は想像する。その昔、新しい街ができる前、空と大地が接するのを望めるような場所で、土の匂いをいっぱいに吸い込みながら見る空は、いったいどんな空だったのだろうか、と。
今回私が、『鉄町散策』をひろたりあん通信の特集記事として企画したのも、実はそこなのである。昔の匂いを嗅ぎたい。変わり続けながら残っているもの、変化の波にさらされて消えつつあるものを探したい。
鉄町は昔の風情が香るその地名が示す通り、昔ながらの自然が残る場所でありながら、閑静な住宅地として急速に違う一面を見せはじめている街でもある。まさにうってつけなのだ。しかし、私はこの辺りの地理も詳しくないし、この企画も半ば諦めかけていたのである。そう、『鉄町の鉄人(ちなみに略しても鉄人だ)』に出会うまでは。
《六月某日 鉄人のお宅を訪問する》
私(長 ちなみに日本人です)と若松さん(略して若様)のもえぎ野店ひろたりあん編集スタッフのゴールデンコンビは、宮澤さんに連れられて鉄町のとあるお宅へと向かった。目的は、知る人ぞ知る『鉄町の管理人のブログ』の執筆者である臼井さんにお逢いして、お話を伺うためである。
来意を告げ、ゆっくりと頷いた臼井さんの口から言葉が出はじめてから、私はただ頷き、ただ嘆息し、ただメモをとるよりほか何もできなくなった。
いつしかかしこまった正座は胡坐になり、少しずつ移ろい変わり続ける鉄町の今昔を、眼前に見ているような気持ちになった。
―ここで少し説明しておこう―
ヤフーでもグーグルでもいい。検索エンジンで『鉄町』を検索してみると、かなり上位にヒットするサイトに『鉄町の管理人のブログ』がある。あたかも集合住宅にいる管理人さんのように、鉄町の隅々まで知り尽くした臼井さんが、鉄町の野草、育っている作物、歴史、伝統行事、身の回りで起きた出来事などを、ほのぼのとした筆致で綴るブログ(ウェブサイト)である。たまたまネットでこのブログを見つけ、どうしてもこの人に会いたい、と駄々をこねて、宮澤さんに紹介の労をとってもらったのである。
臼井さんの知識は想像をはるかに超えていた。しかしこれほど物知りならば、少しくらい自慢話が出てもよさそうなものなのに、その口からは一切出てこなかった。おそらく、と私は考える。臼井さんは鉄町への愛を語ったのだ。愛は自慢するものじゃない。
《六月某日 鉄町散策に出発する》
私と若様は、鉄町散策の出発点を上麻生道路脇にある『田園の憂鬱由縁の地』の石碑に決めた。作家佐藤春夫の代表作『田園の憂鬱』は、この鉄町で書き上げられた物語である。作中に出てくるヒロインの女学生のモデルは実在した方で、彼女が記念にとこの石碑を建立したのだそうだ(鉄町の管理人のブログより)。
われわれは文豪由縁の地をまっすぐ歩いてゆく。しばらくすると、『横浜市くろがね青少年野外活動センター』の看板が見えてくる。『鉄町の管理人』臼井さんの話。
「野外センターは、昔は鉄小学校だったんだよ。ここに戦争中米軍が焼夷弾を何十発も落としてね。…当時石油の代用品として『松根油』を作っていたんだ。鉄町で作っているのが米軍に洩れたんだね」
被害は相当甚大で、死傷者も出た。油を絞るほどあった松の木は、今鉄町に数えるほどもない。野外センターを眺めても、戦争の痕跡はどこにもない。さまざまなサークル活動を行う、また、無料の宿泊施設を備えた市民の憩いの場として、ゆったりとした佇まいを見せている。昔この場所に逃げ惑う人々の姿があったんだ、ということがどうしても信じられない。
野外センターを後にする。交番を過ぎ、どこまでも真っ直ぐ歩いてゆくと、『宗英寺入り口』の看板が見えてくる。ここで右に折れると、緩やかに伸びた坂がのんびりと続いている。
ところが、この辺りで私の足は悲鳴を上げはじめた。地図を片手にデジカメを持つ若様に「休憩しましょう、若様」と持ち掛けると、しかし「うん、でももう少しだよ」と、私の前をスタスタと歩いてゆく。若様はいつもポーカーフェイスだ。私はうなだれて付いてゆく。
やがてその坂をのぼりきろうかというところで宗英寺に辿り着く。
曹洞宗一抽山宗英寺。建立したのは戦国時代、織田家の家臣で、大阪夏冬の陣で手柄を立てた加藤景正というからかなり古い。東京都港区にある永平寺別院長谷寺の末寺として由緒も正しい。
佐藤春夫は『田園の憂鬱』の中でこの一帯を「文明から押し流されてしょんぼりと置かれている」と散々な言い方をしているが、それは豊かな農地が広がる鉄町に自身の心象風景を投影した表現なのだろう。文明はこの地に脈々と息づいている。
宗英寺を過ぎ、うねり出した坂道をのぼっていくと、行き止まりになっている。「あれ? この辺だったはずだよね」地図を見ながらキョロキョロしていると、不審そうに近所の人が出てきた。われわれが説明してその場所を尋ねると、ホッとした様子で「あれがそうだよ」と教えてくれた。指の先に『鉄火の松』の石碑があった。「えっ!?」われわれはしばし絶句した。
『鉄火の松』は逸話とともに語られる伝説の松である。…その昔、早野村(現川崎市)と鉄村(現横浜市)の間に村境をめぐって争いがあった。双方主張を譲らず、お役人の裁定に委ねることになった。
曰く、「真っ赤に焼けた鉄の棒を持ち、長い時間持った方の村の言い分が正しい」と。 最初に鉄村の代表が、勇んで焼けた鉄棒を握ったが、握るや否や、手を引っ込めてしまった。次に早野村の代表が握ったが、涼しい顔をしていつまでも握っていたという。これにより早野村の主張が通り、目印に松の木が植えられた。
…臼井さんの話。「別の言い伝えもあるんだ。あそこが『鉄火場』、つまり賭場だったというんだ。あの松を目印に村役人の目を盗んで集まり、バクチを打っていたと言うんだがもう今となってはどっちが本当かはわからないねえ」
臼井さんも『鉄火の松』の実物は見たことがないそうだが、鉄町の長老にその写真を頂いたそうで、われわれに見せてくれた。枝葉が垂れ下がるように生い茂る、立派な松だったのが、写真でもよくわかる。
しかし、その石碑は実に小さいものだった。60〜70センチ程だろうか。舗装もされていない小路にしょんぼり建っている石碑のある場所に、以前は柿生の駅からも見えたという松の大木があったことを想像してみる。
われわれは引き返して、坂道を下り、さらに左に折れ、コゲト(小ヶ谷戸)の坂と呼ばれる坂道をのぼる。見逃しそうな分かれ道に入ると、そこに『おしゃもじ様』の祠があった。
木々が光を遮って昼間でも薄暗く、神秘的な感じがする。言い伝えもまた神秘的である。…神社に奉納してあるシャモジを借りて病人にご飯を食べさせると、たちどころに病気が治ったという。今は信仰する人もなく、ひっそりとその姿を留めている。 
さあ、もう少しだ。坂道をのぼりきると桐蔭学園の中に入ってゆく。行き交う生徒たちに混じって歩いてゆくと、桐蔭学園の中に最終目的地である『鐵神社』がある。
武蔵風土記にも記述がある由緒ある神社である。若様がお賽銭を入れて手を合わせている。若くして三人の子持ちの若様に「子どものことですか、若様?」と聞くと、「いや、宝くじ当たりますように、って…」 照れ隠しなのか、相変わらずのポーカーフェイスである。
狛犬に見送られて、坂道を下る。われわれは長々と歩いたが、それでも鉄町の一部、一側面を見たにすぎない。
歩けば歩くほどそう思う。何気ない場所に、驚くべき歴史が埋まっている。臼井さんの話。
「ここ(臼井さんの家)にもね、今の皇后陛下、美智子さまがご幼少の頃からいらして、その庭でテニスをしていたんだよ。うちの祖父が正田家(美智子さまのご実家)の雑木林を管理していた御縁でね」

昭和三十四年の伊勢湾台風で、昔の草葺き屋根の家屋が傾いて建て直しをしたため、往時は想像するよりほかないが、ここにいらしたのかあ、と思わず庭を眺め入った。青葉区奈良町の「こどもの国」は、皇太子(当時)との御成婚記念でできたそうだが、「こどもの国」へ行かれる時は、必ず鉄町を通られたそうだ。
さらに驚くべき臼井さんの話。
「岡本太郎(芸術家、故人)のお母さん(作家、岡本かの子)の義理のお姉さん、つまりおばさんだね、その人はこの家から出た人なんだよ」
私の大学での卒業論文は何を隠そう、岡本かの子である。私は二重三重にびっくりした。
帰り道、臼井さんの家の庭の桜桃(ゆすらうめ)の赤い実を思い出す。口に入れると、ぷちん、と弾けて甘酸っぱい味が広がってゆく。懐かしい味。おそらく初めてなのに、懐かしさでたまらなくなる。もう一度食べることはあるのかな。もう一度こんな気持ちになることはあるのかな。もう二度とないかもしれない。
この瞬間は過ぎ去って、二度と訪れないかもしれない。この街が変わり続けていくように。だからこそ大事に、大切にしなければならない。この瞬間も。何もかもが変わり続けて同じ姿でいることはないのだから。
( 長 )

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