■ひろたりあん通信バックナンバー
2008年8月号
わが街 今昔 特別座談会
横浜市鉄国民学校(鉄小学校)  昭和19年卒業生同窓会 第一部

出席者の皆さん

写真左から 村田光治さん (みたけ台) 志村ユキさん(黒須田) 

白井浩三さん(大場町) 川島ミエ子さん(大場町) 

小林左奈恵さん(鴨志田町) 大曽根茂男さん(寺家町)
 


村田「我々は戦中世代なんですよ。生まれた年が満州事変、小学校入った十三年は支那事変(日中戦争)が始まった翌年でしょう。卒業した十九年は疎開が始まった年。本当の戦中世代」

小林「小学校四年生から、全然勉強してないんじゃない。勤労奉仕ばっかりで」

川島「教科書がない。朝、朝礼が終わると、どこそこの家に行きなさいって、鎌と薪しょって」

小林「ずいぶん、ドングリも拾ったわね。でも、今考えるとあんなことで(日本が)勝てるわけないのよねぇ」

村田「ドングリは食料にしたんだね」

大曽根「豆を圧縮して、油をとった残り。あとは、サツマイモの蔓だとかを食べたんですよ。面積あたり、米をナン俵出せ。麦をナン俵だせ。サツマイモをいくら出せ。ところがね、それを出しちゃうと自分たちの食べ物が無くなっちゃう。そんな時代でしたね」

川島「田奈の弾薬庫に勤労奉仕に行ったのよ。ゴマの粒みたいな赤っぽいのをスプーンみたいので入れて。鉄砲の弾に火薬を詰めていたのね。それは一番印象に残っている」

村田「高等科の頃だね。その頃、男はみんな松根油(しょうこんゆ)集めだよ。松の根から油をとるんだけど、鉄町の大蛇松のところとかに行かされてね」

大曽根「それで上級生にいじめられたんだな」

志村「へーっ、男の人でもあったの?」

大曽根「それはひどかったよ」

白井「今、よくイジメっていうのが話題になるじゃない。俺も小学校の頃よくいじめっ子やったな〜と思ってね(笑)」

※旧日本陸軍田奈弾薬庫補給廠=現在の「こどもの国」

※松根油=松の伐根(切り株)から得られる油状液体で、松根テレビン油とも呼ばれる。戦時中は航空機の燃料として利用された。

※大蛇松=現、もみの木台にあった樹齢五〜八百年位の松で、三百メートルほどの松並木があったといわれています。この大蛇松から鉄町の宗英寺にぬける鎌倉古道が今も残っています。

 

当時の鉄小正門 写真提供 小林さん

1941年、全国的に防諜週間が実施され各地区ごとに防諜組織がつくられました。

小学校では、学童から防諜用語を募集し、入選作は表彰されました。

 

大曽根「鉄小に焼夷弾が落ちて、まわりは何軒も焼けたんですよ」

白井「すごかったよ、焼夷弾は。外に出たらサーッて、雨の音のような音がしてさ」

志村「うちのまわりにも落ちましたよ。こんな長いのが…」

白井「引っこ抜いて 中に六角形のゴムが入ってるんだけど、それを拾ってきてさ。風呂の炊きつけにしたよ。(笑)」

大曽根「機銃掃射はおっかなかったな。弾の音だか、薬きょうの音だかわからないんだけど、顔が見えるくらい近くまで降りて来るんだよ」

志村「田んぼやる時は 背中に木の枝を背負ってね。枝が緑だから田んぼの中にいると、わからなくと思ったのね」

白井「大場だけかな、昭和18年頃から、アメリカが相模湾に上陸するっていうんでよ。本土決戦用に戦車壕を掘ったんだよ。あちこち穴だらけにしちゃったんだよな」

川島「大場は四十個くらい掘ったんじゃない?」

村田「地盤がしっかりしてたからじゃない。うちの方(みたけ台)は、赤土だったからダメ。でも、防空壕は、みんな掘ったんじゃないかな。各家庭に必ず山谷があったからね」

白井「こんなでっかい杉の木、百年も経ったような木をいやがおうもなく、みんな伐っちまうんだよ。製材をして、それを防空壕にみんなはめこんじゃったんだよな。終戦になって、その板をはずすのが流行ってさ」

川島「あんな分厚い板をね〜ぇ。やよいが丘とか、お宮(諏訪神社)のまわりも(防空壕を)掘ったね。あの神社はもっと高台にあって、山だったのよ。こんな狭い石段でね。上るのが怖かったわよ」

※焼夷弾=ナパーム弾とも。発火・延焼性の強い油脂を詰めた投下弾。

小林「谷本の杉山神社は木の根っこの階段だった。村祭りは、神社に舞台がかかって、時代物…田舎芝居。それが面白くってさ」

川島「あの頃はのんびりしてたね〜」

大曽根「先生が怖かったよな」

昭和19年卒業生 修了記念写真帳より
 

小林「小学校三年生の一月の二十八日の麻生のお不動様の時ね。先生、お不動様行きたいから学校早く終わらせてね、って言ったら、ダメって言われて、みんなで机の中に教科書をしまっちゃったじゃない」

志村「行けないなら、勉強しないって言ったら、学校早引けになったんだよね」

村田「お不動さんと村のお祭りの時は半日で帰ったね」

小林「だるまを持って帰ってくる人たちを見ると、今日お不動さん行きたいね、って。あの頃は、言葉が悪かったから、『行きたいね』じゃなくて、『行くべぇよぉ』だったけどね。(笑)」

※麻生不動=別名・木賊不動、「火伏せの不動」と言われ、火難から人を守るとされる。毎年、一月二十八日には、「だるま市」が開かれる。

白井「言葉は変わったな〜」

川島「女の子だって、自分のこと『おれ、おれ』だから」

志村「今日はどこのお祭りなんていうと、嬉しくてね…下谷本まで行きましたよ」

大曽根「戦争始まってから、そういうことは一切無くなっちゃった。ま、いろいろ考えてみますとね。自分のためにはいい時代を生きてきたかなとは思いますね。我々より親の方がもっと大変な思いをしたからね」

全員「そう、親は大変だったね」

大曽根「終戦の八月の十五日、あの時はラジオ聴いていても、よく意味がわからなかったですよ。それでも、戦争が終わったんだと、ああ、これから電気つけてのんびり寝られるなと…。感慨はありましたよ。それと同時に教育の恐ろしさをつくづく感じましたね。当たり前と思ってきたものが、ガラッと変わったわけですから。教育っていうのは本当に大事ですね」

 
                                        第二部につづく


昭和19年卒業生 修了記念写真帳より

鉄小学校の跡地は、現在『青少年野外活動センター』になっていますが

校舎の前にあった松の木は、今もなお堂々と枝を広げていました。

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青葉区鉄町(昭和3年頃)

旧上麻生線 柿生方面から「青少年野外活動センター」を望む(平成20年8月)

写真提供 鉄町 金子さん

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