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| ▼2008年9月号 |
| わが街 今昔 特別座談会 |
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■横浜市鉄国民学校(鉄小学校) 昭和19年卒業生同窓会 第一部
出席者の皆さん 写真左から 村田光治さん (みたけ台) 志村ユキさん(黒須田) 白井浩三さん(大場町) 川島ミエ子さん(大場町) 小林左奈恵さん(鴨志田町) 大曽根茂男さん(寺家町) 小林「谷本から鉄町に通うには寒念仏っていう高い木の橋を渡るけど、大正生まれの人に聞いたら、鉄と谷本との縁組の時は寒念仏を通っちゃいけないって言われていたそうなのよ」 白井「へぇ〜知らなかったな〜」 川島「それは初めて聞いた。私はカンネンブツっていうから観音様かと思ったわ(笑)」 小林「ご祝儀ものは通っちゃダメで、目と鼻の先でも、わざわざ市ヶ尾の川間橋を渡って田中屋さんのところを通って行ったらしいの。ニュースでしょ(笑)」
鉄町から市ヶ尾町へ向かう稚児行列(昭和28年) 写真提供 村田武さん(鉄町)
バス停「大場町入口」付近より、水道局、鉄町方面を望む 2008年9月 村田「あの頃は大雨が降るとね、橋に水がのって帰れなくなるから、谷本、寺家、鴨志田のこちら側はみんな帰っていいって先生に言われたんだね」 川島「羨ましかったわね。大場は水がのらないから(笑)」 村田「でも、帰っていいって言われても、帰らないで遊んでんだよ、みんな(笑)」 小林「私は膝上くらい水がある時に、ランドセルを頭の上にのっけて学校に行ったのを覚えてるわよ。寒念仏の橋が沈んじゃって見えないから、そーっ、そーって、足で橋をさぐりながら」 白井「一番台風で大降りして水があがった時は、内野水道の(わっさん)が、わっさんは、外国航路の船乗りだったんだけど、あの人が 『一万トン級の船が通れるな』っていうくらい、一面が海になっちゃったんだよな」 村田「こっち(谷本)はね。中里学園の下の道路まで水がきてね」 大曽根「一番大きかったのは昭和三十三年の狩野川台風だけど、年に二回か三回は、大雨であふれてましたね。私の方の寺家橋っていうのは、昭和三年ですか、みんなでお金を出し合ってコンクリートで作ったんですよ」 村田「今のように補助金だとか、そういうものは無かったですからね」 白井「みんな自分たちで出し合ってやったな」 大曽根「当時のリーダーは偉かったな〜と思いますね。昔は結(ゆい)、ここらでは『いい仕事』って言ったんだけど、助け合いですね。道普請とか、みんなで協力しあったものですよ」
※寒念仏=みたけ台から鉄町に行く現在の宮前橋の袂に碑があった。橋はあの世との境と考えられていて、亡くなった人の霊を慰めるため寒い時期三十日間念仏を唱えた。碑は祥泉院に移されている。この付近は谷本川と呼ばれているが、地元では昔から鶴見川と呼んでいたそうだ。 白井「それはどこも当たり前だったよ」 村田「生活用品は自給自足で、塩と砂糖くらいしか買わないからね」 川島「アブラナは油にする店に持っていき、小麦はうどん(乾麺)にしてもらうお店に持っていき」 小林「お茶は全部自分の家で作った」 川島「蚕もそうですよ」 志村「自分たちの着物はくず繭を使って作ったわね」 村田「長津田に乾繭(かんけん)倉庫があったから、親父がリヤカー押して持って行ったよ」 川島「そう、白い袋に入れてね」 村田「川が氾濫するでしょ、だから桑の葉を高くしておくんですよ。氾濫するのがわかっているから」 志村「そうね、あの頃は桑畑がいっぱいあったねぇ」
縄ないの講習会の様子。(大正10年頃) 写真提供 村田武さん(鉄町) ※乾繭=生繭を熱処理により乾燥したもの。この地域で養蚕が盛んになったのは、明治末から大正の頃。関東大震災によって製糸工場が被害を受けたことがきっかけで昭和4年、長津田に乾繭所が造られました。これによって養蚕農家は繭を直接、製糸工場に運び込まなくて済むようになった。 ※桑畑は冠水に強く、水防の役にもなったので川沿いに植えられた。 志村「中山も自転車だったよね」 小林「よくパンクはするし、棒持って泥を落としながら…、上り坂あり、下り坂ありで、それは大変だった」 白井「砂利道だったよな」 大曽根「砂利道ならいいんだよ。砂利も敷いてないから、泥だらけで自転車が動かない」 白井「あの頃は、市ヶ尾から一軒も家が無かったよな。朝光寺の下に松が出ててよ。あそこいらは、真っ暗でおっかなくてな」 川島「自転車盗られちゃうから、中山の知り合いのところに預けてね。月いくらか払ったのよ」 大曽根「遠足も昔は行軍って言ってね。弘法の松まで歩いていったんだけど。大きな松があって、そこから多摩川が見えるんだけど、みんな海が見える、って大騒ぎしたっけな(笑)」 ※朝光寺(市ヶ尾町1050-17)約450年前に相模の国遠藤村の寺の末寺として創建された。同じ台地にある朝光寺原遺跡からは弥生時代の環濠集落跡や縄文、古墳、奈良時代の遺構が発見された。 ※弘法の松=麻生区百合丘にあった高さ30メートル程の松。昭和31年の火災により枯死、現在は公園になっている。 志村「そう、廣田先生」 白井「あの頃、電話が無くてよ。花崖さんのところにお袋が電話借りに行ったんだよ。で、俺もついて行くんだけど。窓際にいつも座っていてな。でっかい声で話す人だったよ。花崖さんは川和から自分で電柱立てて電話を引いたんだよ」 村田「ここらでは一番早かったね」 志村「薄い水色の洋館でね。高い所にあったから目立ったのよ」 大曽根「花崖さんは、この辺りの文化人のトップだったんだよ」
※廣田花崖=本名、鐵五郎。廣田新聞店創業者であり作家、公務中の事故による下半身不随のハンデを負いながら、農業関係、キリスト教関係、新聞小説、少年少女向け科学小説、冒険小説、翻訳物、紀行文、俳句、短歌等を執筆。
青葉区みたけ台(昭和40年代中頃) 当時は、上谷本町で昭和50年にみたけ台となりました。 左上の未舗装の道は、コンビニ(下の写真)の左側の道になります。 上の写真の撮影場所は、コンビニの向かえにあるマンションの屋上の高さ。 そのマンションの裏手にあるみたけ台中学校と、母屋は同じ位の高さということ になります。丘陵地であったこの辺りの地形は、まったく様変わりをしていて、 当時の面影はまったく残っていません。↓
みたけ台交差点付近(平成20年9月) 写真提供 みたけ台 村田光治さん 当コーナーでは、この地域の古い時代の写真を募集しています。大まかな時代と場所が特定できる写真をお貸しいただける方は、ハガキ、FAX、またはひろたりあん編集部までご応募ください。提供者には謝礼を差し上げます。 |