■ひろたりあん通信バックナンバー
 2010年2月号
 
早渕川のほとりに録(ひろ)う
     わが町今昔〜特別座談会(元石川編)

 昨年11月、美しが丘にお住まいの吉村俊介さんが写真集を出版されました。 タイトルは『山内の丘に撮(ひろ)う』。

 「山内」とは、現在のたまプラーザ、あざみ野、荏田、そして都筑区の荏田東、荏田南や茅ヶ崎中央にまで広がる地域の名称、明治22年から昭和14年に横浜市へ編入されるまでの五十年間親しまれた村の名前です。

 本のタイトルは、横浜北部の郷土史研究に大きな足跡を残された戸倉英太郎氏の著書『都筑の丘に拾う』へのオマージュとして、「撮」の字は、数々の写真コンクールで賞をとられた吉村さんの矜持であり、永遠に消え去ってしまう故郷の自然と、そこに生きてきた人々の記憶をフィルムに焼付け、後世に伝えようとの思いが込められています。

 昨年末、山内図書館で出版記念の写真展が開催された。会場には、来場者一人一人に丁寧に解説されている吉村さんの姿があった。

「あ、これは勿体ない。貴重な写真だけじゃなく、貴重な昔話も残さなければ…」 傍らで聞いていた私は、思わずそうつぶやいていた。今回の特集は、そんな私の思いつきです。

 二年前に写真集『あざみ野〜あの時の昭和・平成〜』を出された飯島一世さん、青葉区を代表する郷土史研究家で、郷土史のバイブル『山内のあゆみ』の著者、横溝潔さん。

 同じ山内村(石川村)に生まれ育ち、故郷の記憶を後世に残そうという共通の思いで、本を出版された御三方にお集まりいただき、ここに豪華な対談が実現しました。 

 題して『早渕川のほとりに録(ひろ)う』。 どうぞお楽しみ下さい。

石川村の三冊
横溝潔さん(以下、横)
「荏田は徳江(義治)さんが立派な本を出されましたね。『港北ニュータウン物語』(全576ページ・田園都市出版)ですか、開発事業について、本当に細かく記録されていますよね」

吉村俊介さん(以下、吉)「根本(藤吉)さんも、地元を満遍なく歩かれて写真撮られていますよね。(『変わりゆく古里写真集』)」

「田奈にも中里にも、まとまった郷土史の本があるんですよ。山内には無いでしょう? だから、みなさん昔の記録を残さなければと思うんでしょうね。私も郷土史研究者とか言われていますけど、そんなものじゃないんですよ(笑)

 タウン誌(『たまプラーザ』)の記者というか、聞き書きみたいなものを書いてきて、その連載されたものが本になっただけなんでね。

 今は新住民、旧住民ということを言わなくなっちゃったんですけど、『たまプラーザ』という新聞ができたのが、まだ、まわりが開発されていない頃で、周辺のニュースを書かせてもらったんですけど、丹念に調べてみると、各地域、各集落の生活っていうのが微妙に違うんですね。どうして違うんだろう?という知的な好奇心?(笑)そういうところから始まっているんですよ」

(たまプラーザ新聞…「よりよい地域社会を考え、発信していくタウン紙」として昭和五〇年八月に創刊。第二、第四土曜日の月二回発行されていた)

飯島一世さん(以下、飯)「私は、たまたま地元の小学校から『このあたりが昔どんなだったか?』という話を授業でして欲しいという依頼がありましてね。

 こりゃ大変なことになったな(笑)というので、思いついたのが、昔の写真を見せながら話をしようかなと、子どもの頃には、電話も無い水道も無い。電灯も一軒に一灯だけ点いていて、暗くなると点いて、朝になると消えるとか、ウナギやドジョウを捕った話とか、戦争の悲惨さを話したりしたんですけど、休憩時間になっても質問がくるんですね。

 それが終わって、ホッとして10日くらいしたら、今度は児童全員から絵が送られてきて、発表会があるから来てくれっていうんですよ。そうしたら、私が話した内容を元に寸劇をやってくれたんですね。

 それで、こんなに喜んでくれるんだったら、何か残せるものは無いかなと思ったんですけど…、六十四冊あったアルバムの中から抜粋して写真集を作ったんですよ。横溝さんみたいに文章が書けないんで苦労しました(笑)」

「私も地元に目を向けるようになったのは、横溝さんの『山内のあゆみ』ですね。相澤(雅雄)さんとか村田(公男)さんとか郷土史家の方から(郷土史を)勧められたんですけど、自分は基礎が無いから写真で行くよってお断りしたような気がしますね。写真撮り始めたきっかけは、若いうちに山登りしたり、走ったりしたので、記録を残すっていう気持ちがあったのかな? と思うんですけどね。

 所帯持って山登りができなくなって、じゃあ写真でも撮ろうかなと、最初は写真コンテスト専門でやっていたんですよ。懸賞荒らしでね(笑)結構小遣いかせぎしましたね(笑)次第に、これでいいのかな? という意識が出てきて、荏子田と赤田、荏田の渋沢や柚木の方に、まだ昔のままの姿が残っていたので、ああ、アマチュアの写真家としては、これだろうということで撮り始めたんですよ」

「写真には勝てませんよね。写真一枚あれば文章いらないんですよ(笑)」

「偶然の出会いというのが多いんですよ。歩いているからかもしれないんですけど…行った瞬間にこれだ! っていう出会いがあるんですよ。女の子が絵を描いている写真(トップの写真)も、たまたま、私が平川の方から上っていったら、工事現場の方から女の子が上がってきたんで『何しに来たの?』って聞いたら『この風景を描きに来た』って言うんでね。これなんかも本当に偶然の出会いですね。横溝さんのお祖母さんの写真もそうですけど」

「いい供養になりますよ。(笑)飯島さんの写真は報道写真ですね。特に早渕川の車が流されている写真」

「あれは、私の車なんですよ。(笑)昭和四十九年ですね。昔だったら田んぼや山があって、保水できたんでしょうけど、ちょうど区画整理をしていたんで、考えもしないような水が出ちゃってね」

「小学校の時に見たときは、川の底は岩でしたね。いつもは水量無かったですよね」

「岩でした。戦時中裏に防空壕掘ってもね、1mも掘らないうちに岩にぶつかって、あとは一日かかっても幾らも掘れないんで、諦めて出っ張った防空壕作ったけど、これじゃあ爆撃されちゃうってね(笑)」

「『山内のあゆみ』には、各集落の地図をお願いして描いてもらったんですけど、これが好評でしたね」

「あれはいいですね。昔の地図を手で描いてみて、みんなでここに池があったとか、道がこう曲がっていたとか、そういう話をするのも面白いでしょうね」

「もっと細かく復元されたら、どうして人がここに住むようになったかまで分かるんじゃないですかね」

「日陰という土地も、家を陽のあたらない所に作って、畑を陽のあたる所に作ったんですね」

遊びと手伝い
「荏子田に溜池があって、牛込の満願寺の下にも池があったんですよ。大きな池があって泳ぎに行ってさ」

「昔はプールも何もないから、よく泳ぎに行きましたよ。佐登屋の前あたりに堰があって、けっこう深かったから…」

「そうそう、二枚橋のところだ」

「それから、荏子田の池は大きかったね」

「大場の池は行かなかったですか?諏訪神社の下の。溜め池は浅瀬が無くて、いきなり深くなっているから、溺れてさ(笑)」

「僕がどうして他の集落に関心をもったかというと、下谷(しもやと…現在の新石川)でもね、向根と原と高津っていう地区があるんですよ。小学校行くまでは友だちがいないから、畑とか田んぼに親に付いていくんですよ。だから、牛込や保木(現・美しが丘西)の方には行ったことがなかったんですよ」

「私も他の地域に行ったっていう記憶はないね。僕なんかも、小学校から帰ってくると、だいたいお祖母さんが作っといてくれた御茶請けを持ってさ、親の畑持っていって、ちょっと手伝っちゃ、帰ってくると風呂の水替えたり、薪割ったりね。井戸水が釣瓶でさ」

「あれは大変だったね」

「重労働だったね。釣瓶の水が二、三杯でバケツ一杯になるかな。風呂だって外風呂だからさ」

「兄弟でケンカしながら、お前は何杯運んだとか」

「そう、家の手伝い、やりましたよ。鶏にエサやったりね。それがいろんな意味で役にたってるんだね。テレビだって無いからね〜」

「春夏秋冬それぞれの遊びがあって、外でご飯食べるのって美味しいじゃない。休みの日なんか、近所の仲間が弁当持って、わざわざ丘に登ってね、おしゃべりしながら弁当を食べたっていう記憶がありますよ」

「私が子どもの頃っていうのは、農繁期、田植えの時と稲刈りの時、学校が休みになるんですよ。もっと小さい頃、保育園だとか幼稚園が無かった頃は、ボランティアの人たちが畑仕事の邪魔にならないように預かってくれるんですね。中村と牛込と一緒になって満願寺で遊んでいましたね」

山と川
「学校の帰りに早渕川でゲバチ(鯰に似た魚)を笹で突っついて捕って、笹に刺して家に持って帰ってね」

「毛の生えたモクタガニを捕ったね。ここにいるなって思うと、土や石で囲んじゃうんだね。そして、掻い掘りって、バケツで水を出してね」

「僕らの掻い掘りは、水量が少なくなった時に、流れを迂回させてさ、よくウナギを捕まえたね」

「ウナギは竹で編んだ筒を夜に仕掛けて置いて捕ったね。あと田んぼでタニシをバケツ一杯捕って、味噌で煮てね。ドジョウはイヤっていうほど捕まえたな」

「里山だからね。昔は山仕事が楽しかったってみんな言ってるよね。畑とか田んぼの仕事は大変じゃないですか。だから、山に行って餅焼いて食ったり、遊び的な感じがあってね。たまに山火事があったよね。今新石川小学校のある辺りの山が焼けてね」

「山火事は多かったね。今のカリタス(女子短期大学)の向かい側あたりで、やっぱり山火事があってさ」

「あと、鉄砲撃ちが来てね。うちの近くでもビンビン撃ってましたよ」

「野ウサギが結構いてね。ウサギ坂っていう地名が残っている」

「荏子田の一番奥から嶮山に降りる境だね」

「すすき野中学校や小学校の近くかな?」

「そうそう。もう面影ないね」

医者と薬局
「医者もね。石川に服部医院。荏田に横山医院、この二つしかない。服部医院は子どもがいなかったから廃業になっちゃったけど。骨つぎは、西勝寺の住職さんね」

「私も横山さんにはお世話になったね。浄土真宗の系統なんだけど、お爺さんが歯医者でしょ。接骨院が三男」

「薬局は、今の国道二四六の関根っていうところにあってね」

「ああ、丹沢薬局」

「何かあると丹沢さん。病気の相談ものってくれるんだね」

「荏田宿があったじゃないですか。そのからみがあったのかもしれないですね」

戦争体験
「なにしろ学校に入った時が戦時中で、国民初等科ですからね。小学校三年の時が終戦で、ラジオが無かったんで、隣の家に近所の人が集まってきてね、これから大事な話があるって正座させられてね。戦争終わったって聞かされて、そうしたら、オジサンが、これからの男は奴隷のように働かされる。女は男の格好をして逃げなきゃいけない」

「国学院大学の所が陸軍の射撃場だったからね。あそこへ行くと薬莢が落ちているから、それを集めてね。空から米軍の飛行機がパラパラ電波妨害の錫を落としたんですよ。日本軍がフィリピンで日本軍が負けた写真を巻いたんですけど、それを全部集めて持っていたんですよ。親父の軍隊手帳だとかね。そうしたら、そんなもん持っていたら、マッカーサーに捕まって連れて行かれるから全部捨てなさい!って言われて捨てたんですよ」

「今もっていたら貴重ですよねぇ(笑)」

「この辺も攻撃されたんですね。堰で泳いでる時に、機銃掃射がバババババッバってきたんで、急いで木の陰に隠れてね。小学校の前に焼夷弾も落ちたんですよ。六角形のやつね。子どもだから、それを引っ張り出したんだね。中に挽き肉みたいなゴニャゴニャしたのが入ってるんですよ。それいじっていたら、火が点いちゃって。爪の中に入っちゃって、そうしたら、兵隊さんがすぐにね。早く水もって来い!って」

「私が二十年の五月三十日生まれなんですよ。よくお袋に言われたのは、お前は防空壕で生まれたってね。横浜の大空襲が五月の初め頃だったかね。こんなこと言っちゃあれだけど、綺麗だったって言ってましたよ。真っ赤でね」

「長沢の浄水場のところに飛行機が落ちたんですよ。みんなで竹槍持っていったら、女の飛行士が乗っていたそうですよ」

「軍隊が引き上げちゃったら、小学校の床が沈んじゃうくらい缶詰が残っていて、みんな腹減ってしょうがないから取りに来るわけですよ。宿直の先生まで、初めは一個二個、そのうち段々派手になってね、リヤカーで取りに来ちゃったりして。(笑)それから軍服が残っていたんだけど、シラミがたかっていてね。熱湯で消毒しましたよ」

「そういうことがあったって言うのは聞きましたけど…、面白い話がいっぱいありますね」

「気持ち悪かったのは、農協の裏小屋のところにドラム缶を持ってきてね。ウサギをドンドンドンドン殺して毛皮を取るんですね。それを子どもの頃に見ちゃって、しばらく肉みたいなものイヤでね。もっとも、農家はみんな、お客さんが来ると鶏を絞めてご馳走したりね」

「大晦日は鶏一羽ひねるのが恒例だったですもん。年越し蕎麦のダシにするのに。そのために雄鶏を残しておくんだね」

 

都市化の波
「昭和三十年代って森閑としてましたよね。テレビも電話も車も無い、見渡しても、どこの畑だか分からなかったけど、どこの畑も田んぼも、みんなキレイだったね」

「みんな競い合ってたね。他所の畑より草を出すなとかさ」

「『えい仕事』って言ったんだけど、競争しながらも、一軒じゃ無理なことは助け合ってましたね」

「助け合っていたね。なにしろ燃料が満足になかったですからね。薪とか粗朶とか他人の山に入って貰ってきちゃうんだね。山の主も『ちゃんとした枝は折らないでくれよな』っていって大目にみて許してくれてね。それから山芋掘り。『掘ってもいいけど、ちゃんと埋めといてくれよ』ってね(笑)」

「家に鍵なんてかけなかったしね。恥ずかしかったのは、会社に勤めはじめた頃、ダイヤル式の電話でどうやって掛けたらいいかわからない(笑)。こっちは近くの商店にしか電話が無い。掛ける時も、受話器がぶら下がっていて、ハンドルを回して局へ頼むわけですよ。郵便局が1番で2番が学校とかね。ようやく二桁になったのは、かなり経ってからですよ」

「一番都市化だな〜と感じたのはね。すれ違っても挨拶をする人が少なくなったこと。それとね、お袋が最近話すのが恐いって言ったんだね。それで『何で?』って聞いたら、新しい人と話したときに、昔の言葉を使ったら笑われちゃったって言うわけ。この辺の言葉は荒っぽいんだよね」

「神奈川弁はね。よく学校の先生に叱られましたよ。『ひ』と『し』が使い分けてないとかね(笑)」

電車と道路
「昭和二十六年から仕事して大井町に通っていたんですけど、溝の口まで行くのにバスが間に合わないんですよ。それで、自転車で行って、南武線の踏み切りのところに馬の蹄鉄を打つところで預かってくれるんですよ。大井町線が来るんですけど、溝の口のホームが板張りなんですよね。でね、二両しか来られないんですよ。何故かっていうと、玉電の線路を利用していたから、二両以上の重量がかかるとダメなんです。それで大井町線でコトコト行って、一時間半くらいかかったかもしれないですね」

「国道二四六号も、新石川の交差点から目黒の交差点、旧十六号の、あそこまでセンターラインを走って往復できた。車の量が少なかったから。分離帯も無いし、片道14kmあるんだね。あれは楽しかったなぁ(笑)」

「保木(美しが丘西)の飯島安男さんは、鶴見に勤められていたそうだけど、バスに乗らないで往復走って行ったって言ってましたよ」

「彼はね、マラソン仲間なんですよ。当時一緒に青梅マラソンとか行っていた。彼はずっと実業団でやっていたからね」

「息子さんがヨットでオリンピックに出たでしょう?」(飯島洋一さん、夢の吹く丘・平成20年七月号)

「洋一さんね。家に行ったときに偶然撮ったのが写真集に載っているんですよ。(一歳の誕生日前に歩きはじめた子どもに一升瓶を背負わせるという儀礼の写真)」

「片鱗をうかがわせますね。でも、山内は面白い人いっぱいいましたよね。なんとも言えないパワー持っている人、今の六十歳、七十歳くらいで凄い人はいっぱいいますよね」
 
 飯島さん、吉村さん、横溝さん、ありがとうございました。座談会の企画は、地域を変えて今後も続けていきたいと考えています。ご期待ください。


 

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