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「魚編に青、確かに「鯖(さば)」である。鯉でもなければ鯵でもない。マグロもなくサバである。
鯖神社…、思わず酢でしめたくなる不思議な名前の神社に出会ったのは昨年九月。
特集記事「古民家めぐり」の取材で泉区和泉町の(天王森泉公園)を訪れた際のことである。
市営地下鉄「下飯田駅」から環状4号線を南下して和泉川を渡ったところに、この神社はあった。目的が違うので、あえて寄りはしなかったが、帰ってから気になったので調べてみた。
すると、和泉川沿いには、佐婆、左馬と字は違うが、サバと読む神社が他にも二つ存在することがわかった。
さらに驚いたのは、隣を流れる境川沿いにも八つ、その西の引地川にも一つ…、行政区分でいうと、横浜の瀬谷区、泉区と、大和市、藤沢市にかけて、「サバ」と読む神社が合計
12社もあったのである。
しかも、このうちの7社を一日のうちに回れば、
麻疹(はしか)や湿疹、百日咳が治るという『七さば参り』という行事もあるという。
ひとつの地域に同じ名前の神社が複数あるといえば、なんといっても、鶴見川流域に70数社ある『杉山神社』だろう。
この神社の謎はあまりにも深い。様々な研究もされているが、諸説紛々、「これだ!」という結論には、いまだ達していない。その点、この不思議なサバ神社はたったの12社。『七さば参り』なら
7社。一日あれば取材できそうだ。
(よし、ヒマが出来たら調べに行ってみるべぇ)と、鮮度が落ちないように、冷蔵庫のようにクールな頭の中へポンポンと放り込んでおいた。
サバと境川
その冷凍保存のサバが解凍されたのは半年後。
先月号の「地名推理ファイル」で、三渓園を造った原三渓(はら・さんけい)の生誕地を訪ねた話を書いた。
場所は、岐阜県羽島郡柳津町。
その柳津町の旧地名が『佐波(さば)村』という。そして、生家跡のすぐ横を流れている川がこれまた境川と来たもんだ。
(サバと境川)この二つのキーワードを目にした途端、冷凍室の引き出しがパーンと開いた。サバは「生きぐされ」といって足が速い、腐らないうちにサクサクと捌いて、原稿に盛り付けところ、「お、コイツァ、珍しいネタだね」と、嬉しい言葉。
ご贔屓の(地名推理ファン)のお客様ってぇのはありがてぇもんだって、どこの寿し屋だ!
『七さば参り』のことを詳しく教えてほしい。
サバ神社の場所はどこにあるのか?
なぜ左馬をサバと読むのか?
サバの字が違うのは何故か?
サバの美味しい調理法を知らないか?
サバは関サバに限る…?
などなど、読者の皆さんから多くの問合せがあった。
皆さんの要望と、私の願望が一つになって、今回の特集記事が決定した。さっそく、サバ神社を訪ねるため、相模の国へと跳んだのであった。
《
橋戸・左馬神社》
青葉区方面から回るなら、最北に位置する瀬谷区橋戸の左馬神社がもっとも近い。そして、すべてのサバ神社が境川から、さほど離れていない。
ということは…、下流に向かって歩いていくほうが分かりやすいし、楽に回れるということだ。
最北に位置する瀬谷区橋戸の左馬神社から七つ目の今田鯖神社まで直線距離にして、およそ7km。 楽勝だ。
境橋から境川の流れをみる。思いのほか速い。鶴見川同様、昔は蛇行を繰り返す川だったが、今は護岸のためのコンクリートで固められ、まっすぐに矯正されている。
川岸にはサイクリングロードが整備されていた。 25年前、たまプラから小田原まで自転車で行った際に、このサイクリングロードを通った。川風が気持ちよかったことは覚えているが、町の様子は思い出せない。ずいぶん変わってしまった気がする。
左馬神社は境橋東南東の住宅街の中にあった。
まずは参拝を済ませる。神社や寺社の散策に、参拝もしないでいきなりあちこち見て回る人がいるが、できれば止めていただきたい。これは宗教観の違いとか信心の問題ではなく、礼儀である。
他人の家を訪ねたら、まず挨拶をするであろう。
何ごとのおわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
とは、西行法師が伊勢神宮を訪れた時に詠んだ歌である。
神社というのは、本来どのような神様が祀られているのか?などという詮索をしてはいけないのである。(そうなると、この特集記事の主旨自体に矛盾が生じるのだが…)
とにかく、その土地の人々が代々崇敬してきた神様が、鎮座まします場所を故あって訪問したのだから、かたじけなさ(ありがたくて、もったいなくて、畏れおおい)に涙せずとも、謙虚に、そして失礼のないように、境内を散策するくらいは、していただきたい!

源義朝(よしとも)
参拝を済ませ、本殿を見上げると、「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋が目に入った。
笹竜胆といえば源氏である。
説明板を見ると「左馬」には「さま」のルビがふってあった。
祭神は左馬頭義朝(さまのかみ・よしとも)とある。御存じ源頼朝や義経の父親、源義朝だ。
(なるほど!)
ちなみに、この左馬神社の前の道は、鎌倉から境川流域を北上し、府中・高崎を経て、信濃越後へ抜ける『鎌倉街道の上ノ道』なのだ。
左馬頭とは朝廷から任官される役職の名である。
簡単に言ってしまえば、朝廷保有の馬の飼育・調教を管轄する馬寮の長である。軍事的警察的にも重要な役目で、鎌倉時代には、武士があこがれる最高職であった。
現在(いま)を遡ること850年前。 平治の乱で平家方に破れた義朝は、わずかな家臣と共に関東に向かう。
『保元物語』によれば、途中、付き従っていた鎌田政清の嫁の実家に泊まるが、この嫁の父、つまり舅が、義朝を討ち取って、首を平家方に渡して恩賞にあずかろうと企てる。
湯殿(風呂)に入っていたとこをを襲われた義朝は、「われに木太刀の一本でもあれば」と叫び、あえない最期を遂げる。享年38歳。
幼い頃から義朝に付き従っていた郎党の金王丸(弱冠17歳)、この事態に奮戦して裏切り者の暗殺者を斬り伏せるも、衆寡敵せず、命からがら逃げ出すと、義経らの母である常盤御前の元へ報告に走ったという。
余談だが、この金王丸は、のちに京都にいた義経を襲って返り討ちにあった土佐坊昌俊だという説がある。別名・渋谷金王丸。東京渋谷駅近くの金王八幡神社の一隅には、金王丸を祀る金王丸影堂がある。
ついでに、東京の渋谷は大和市の高座渋谷に領地を持っていた渋谷氏が発祥である。
さて、同じく助けに向かった鎌田政清(政家とも)も、嫁の一族に殺されてしまう。義朝と同年であった。
ちなみに、この政清の館跡が、都筑区の東山田に残っている。
神社の鐘楼
ぐるっと境内を見渡す。至って普通の神社だ…と思ったら、境内の隅に神社に相応しくないものがあった。 鐘楼である。
(神社に鐘?)
鐘楼については「太平洋戦争の際に供出させられたが、氏子の協力によって新たに造られた」と説明されている。よほど地元で大事にされていたのだろう。
「神仏混淆(こんこう)の姿が今日に残り…」とあるから、明治時代の廃仏毀釈運動が起こった際に、神社の持ち物として残されたのか?
そういえば、神社の隣は「八福神巡り」で有名な西福寺だ。別当寺は、この西福寺なのだろうか? 調べている余裕はないので次に向かう。
《
上和田・左馬神社》
境川に戻って、川岸を800mほど下ると中原街道に出る。二つ目の『上和田・左馬神社』は、中原街道を桜ヶ丘駅に向かった途中の高台、「新道大橋」の南南西にあった。
鳥居をくぐると、またしても境内に鐘楼の姿。鐘楼堂改築記念碑まであった。
(祭神は…、やはり左馬頭義朝、家紋も笹竜胆だ。)
扁額は「左馬社」とある。さっきもそうだったが、なぜ「左馬」を「さば」と読むのかは、やはり判然としない。

本殿に向かって左手の三社殿には、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、神武天皇、須佐之男命(すさのおのみこと)が祀られている。
「文化三年四月三日上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊穣の祈願をなしたるや…武家、一般庶民などの崇敬者多し」
と説明板にある。こちらも信法寺というお寺と関係があるようだ。
その信法寺は、神社の参道から南に1.5kmほど下ったところにある。しかも、そのまま進めば三番目の左馬神社に着く。ふたたび川に戻って南下するよりは、はるかに近道だ。
ここは横着して…いや、信法寺にも興味があるので、参道をまっすぐ南に向かうことにした。
大和南高校を過ぎてしばらく行くと、右手の土手に『薬王院の双盤念仏』という写真入りの説明板があった。
和田義盛と薬王院
《双盤念仏》は、鉦や太鼓を鳴らして先祖供養をする行事で、荏田の真福寺や市ヶ尾の地蔵堂などでも行われている。
薬王院は信法寺の別院らしい。階段を上がると本堂があった。
その横の『薬師如来縁起』という説明板によると、
この土地の地頭であった鎌倉幕府の御家人・和田義盛が眼を患った際に、行基作と伝えられる薬師如来に祈願したところ、十七日にして平癒したとある。
(あ、そうか。上和田下和田という地名は…和田義盛と関係していたんだ)
彼が侍所の別当(武士をたばねる長官)に任じられた時に、その恩に感謝して、この寺を建てたとある。
信法寺は、薬王院の隣にあった。信法寺には、室町時代前期造立といわれる木造阿弥陀如来立像があり、大和市の重要文化財に指定されている。
《下和田・左馬神社》
信法寺を出て、団地と野鳥の森の間の道をさらに南下する。
東海道新幹線の線路を越えると、左手に鬱蒼とした森が現れた。『下和田の左馬神社』の鎮守の森だ。
杉の林を抜けると、境内に出た。
(おお、きれいに掃き清めてあるではないか)
感動しながら境内の真ん中を横切ると、境内にいた数名の男性が一斉に非難の目を向けてきた。しかも、彼らは手に手にハンマーのようなモノを握っている。
(なんか、やばい雰囲気。どうしよう、あのハンマーで襲われたら…)

「わ、我に木太刀ならぬ、トンカチの一本もあれば〜」と叫ぶ間も無く、ボールが目の前を転がっていった。
なんのことはない、境内でグランドゴルフをやっていたのだ。
こちらは参拝者、神社なのだからこちらが優先、遠慮することはないが、多勢に無勢。プレイを邪魔しないように拝殿に向かった…が
あれっ?拝殿が無い。いや、あった。大きな神楽殿?の後に隠れていた。小さい。しかも階段が横にも付いている。
なんとも、不思議な造りの神社だ。境内の隅には、やはり鐘楼があった。
その小さな拝殿に手を合わせ、境内を調べてみると、
鳥居の側の寛政元年(1789)銘の常夜灯に『鯖大明神』と彫られていた。
(おお、やっと魚の鯖の登場だ)
下和田の左馬神社は、元々は『鯖明神社』と呼ばれていたらしい。
階段を下りて、境川に向かう途中、大きなお屋敷があった。幕末に名主を務めていた大津家の屋敷だそうだ。この家の長屋門は、大和市の重要有形文化財に指定されている。
《
飯田神社》
OKストアと「あけぼの幼稚園」の前を通って境川へ出たら、『緑橋』を対岸に渡り、川沿いを下流に向かって歩く。
左手の「県営いちょう団地」が途切れたところで、左に曲がり、路地を抜けてバス通りに出る。さっきの鎌倉道はここに続いている。
四番目の『飯田神社』も鎌倉街道沿いに鎮座していた。

「新編相模風土記稿には飯田明神社、鯖明神とも言う」と石碑に彫られている。ここもサバ神社であることは間違いない。
説明板には、義朝を主神に、宇迦之御魂大神と大山咋神を祀ったのは「飯田五郎家義」とある。
飯田家義・・・源頼朝が石橋山に挙兵して、危機におちいった際、敵方であったにもかかわらず、自分の部下を使って頼朝を逃がしたという人物だ。 すぐ近くに、
館跡があるという。
境内には当然のように鐘楼があった。四つ続けて鐘楼があると、もう当たり前になってくる。
《
七ツ木神社》
境川の対岸に戻り、上高倉堰の上に架かる橋を渡って、サイクリングロードを下る。右手には田園風景が広がっている。
お婆さんが何かのタネを蒔いている。その後の民家の軒先には大きな鯉のぼりが、気持ちよさそうに泳いでいた。
「五月の鯉の吹流し 口先ばかりではらわたはなし」
江戸っ子のことを詠んだ川柳が口をついて出た。言葉づかいは悪いが、さっぱりしていて腹の中には何もない。という意味だ。
今の自分はさしずめ、「五月の鯖の謎さがし…」だな…
「行く先々で、源氏のはなし」
な〜んてね。
それにしても、源氏にまつわる話が多い。

蛇行した川に沿って1kmほど行くと、『高飯橋』がある。そこから右手前方に見える小高い丘が「高倉中学校」。五つ目の『七ツ木神社』は、その隣にある。
鳥居の前に立つと、これぞ村の鎮守といった雰囲気。境内は広々として明るい。にもかかわらず、なんだか寂しいのは、境内に鐘楼がないせいか…。それに説明板もない。
が、面白いものがあった。「蠶(かいこ)神社」の石碑と、護蚕祠(ごさんし)と呼ばれる養蚕組合の石廟だ。
この辺りでも、かつては養蚕や製糸が盛んに行われていたのだろう。近くに湧水もわいていた。
主祭神はやはり義朝だが…、境内の土手の上には祠や石造物がいくつも祀られているところから察するに、門客神(元もとの地主神だったり、合祀されて祀られた神)も多い。
七ツ木神社も飯田神社同様、元は『鯖明神社』と呼ばれていた。

《
下飯田・左馬神社》
再び境川に戻りサイクリングロードを歩く。
「渡戸橋」という風情のある木の橋を渡って少し坂を上ると、またまた鎌倉街道に出た。
鎌倉街道を渡って、そのまま茂みの中の細い道を行くと、茂みの先に石仏が見えてきた。
鬱蒼とした森に囲まれた『下飯田の左馬神社』は、これまでで一番薄暗い場所にある
。石仏の雰囲気といい、夜だったら妖怪の一匹二匹が登場してもおかしくないロケーションだ。

それなのに、薄気味悪さをまったく感じさせない。その理由は、境内のあちらこちらに咲いている可憐なタンポポのおかげではないだろうか。
しかも、このタンポポ、どこにでもある西洋タンポポではなく、純国産のニッポンタンポポである。駆逐されたと聞いていたが、こんなところでしっかりと生きていた。
(頑張れニッポン!)思わず声援を送りたくなる。
頑張るのはお前だ。タンポポに気をとられていて、石の鳥居の数十m手前に朽ちかけた木の鳥居があるのを見過ごしていた。その傍らには「鯖社境内」と彫られた石碑。
(おお、ここも鯖だった!)
木の鳥居の前の階段を下りると、さっきの鎌倉街道に出た。参道のこの角度は飯田神社と同じだ。
そのまま鎌倉街道を南に向かって歩き、相鉄いずみ野線と市営地下鉄ブルーラインのガードをくぐると、左手の公園の中に『富士塚城址』の大きな石碑が建っている。ここが飯田五郎家義の居館である。
《
今田・鯖神社》
境川の河川敷で子どもたちが石投げをして遊んでいた。サイクリングロードから川の様子を眺めながら進み、市営地下鉄ブルーラインと相鉄いずみ野線のガードの手前で右折
する。
25年前に自転車でここを通った時は、川の向こうに横浜ドリームランドの大観覧車が(高さ75m)が忽然と現れたのを覚えている。日本屈指のレジャー施設と呼ばれた、そのドリームランドも八年前に閉園してしまった。
最初の角を左折してガードをくぐると、ついに最後の『今田の鯖神社』にたどり着いた。
鳥居から続く白い参道と石段、その向こうにピカピカの本殿が見える。建物はまっさら。鎮守の森はもちろん、境内にも、樹木と呼べるものは一本もない。
それもそのはず平成十三年と平成七年に火事で御神体ともども焼けてしまったのだそうだ。どちらも放火だという。
わずかな期間に、二度も社殿を建て直したということだ。氏子さんたちの努力には頭が下がる。
鐘楼を大切に守り続けている神社もそうだが、氏子さんたちの氏神様に対する崇敬の念に敬意を払い、サバ神社巡りの最後の神社に心を込めて参拝する。
結局謎は解けなかった。
(持病のアトピーが好くなりますように…)謎は解けなかったが、サバのご利益くらいは期待しよう。
神社の掲示板に「今田鯖神社保存会のパンフレットをお分けします」という貼り紙があった。そこに書かれていた地図を頼りに…といっても、すぐ近く、線路の向こう側だった。
「藤本産業」という会社であった。社長さんが神社の役員をされているという。

義朝殺害の犯人
パンフを購入したついでにサバ字神社の謎について尋ねてみた。
「境川の流れは結構早かったでしょ。昔から洪水が多くて、水田耕作に適さない土地だったんですよ。つまり、最初の神社は、水を鎮めるための『沢の小祠』だったんですね」
沢の小祠…川の神様っていうこと?
サバではなくサワ…だったのか。
「左馬頭義朝を祀ったのは、江戸時代、徳川家康に従ってこの地(高座郡・葛原)を治めた長田氏じゃないかといわれています」
(お、おさだ氏…ですか? 長田って、もしかして…)
「あはは、全部この本の受け売りですけどね」と、手渡されたのは『源義朝を祀るサバ神社その謎に迫る』という本。
著者は江本好一さん。奥付にある著者プロフィールを見てギョッとした。
藤本さんの顔を見ると、「ねっ」という顔で頷かれている。
著者の出身は愛知県知多郡、義朝が殺された土地だ。
(思い出した!)
義朝を殺した犯人、つまり鎌田政清の舅の名前は、確か長田忠致(ただむね)。
「そこの神棚の所に写真があるでしょう。あれは野間の大坊なんですよ」
(やはり!)
野間大坊(のまだいぼう)は、義朝が殺された場所に建っている真言宗の寺院だ。一昨年、これも名古屋に帰省した際に、知多半島のその場所を訪ねている。名鉄知多新線「野間駅」から歩いてすぐの場所だ。
「そうですか、野間大坊に行かれましたか〜。どうでした?」
「昼間なのに、薄暗くて、霊気漂うという雰囲気でしたね」
「特に、血の池のあたりはそうですね。義朝公の御廟には木刀が積まれていたでしょう」
「我に木太刀の一本もあれば…」 という、義朝の無念の気持ちを鎮めるためなのか、御廟には小さな木刀が山のように積まれていた。
御廟の近くには、鎌田政清と、夫を自分の父親に殺されたことにショックを受けて、自ら命を絶ったその妻の墓もあった。
「サバ神社を歩いて回ったのなら、薬王院は行かれましたか?瀬谷の左馬神社の社伝に
、『左馬の宮さんと和田の薬師さんは仲が悪い』というのがあるんですけど、その薬師さんが上和田の薬王院なんですよ」
瀬谷の左馬神社とは、最初に行った橋戸の左馬神社である。
「義朝が殺された湯殿は、法山寺という寺にあったんですが、その寺の本尊が薬師如来で、しかも、その寺と湯殿を建てたのは、薬王院の薬師如来を彫った
といわれる行基なんです」
「あ、なるほど。
殺された寺と同じお薬師さんで、どちらも行基が関わっているとなると、義朝を祀った神社としては気分がよくないですよね」
「それも、この本に書かれていますけど、本当のところは分かりません」
「いずれにしろ、瀬谷の地を治めていた長田氏が、先祖が犯した罪による因縁を思って、義朝を祀ったということですね」
「家康が関東に来たときに、長田忠勝という人が家康から瀬谷の地を拝領しているんですよ。葛原(藤沢市葛原)にも長田氏の史蹟がありますしね。ただ、ここの長田氏は義朝殺害に関与しなかった兄の方の流れなんです
よ。さきほども言いましたように、この土地は暴れ川のせいで作物ができない。同じ一族ということで、先祖の因縁を考えたんでしょうね」
御霊信仰というやつだ。
因みに殺害に関与した方の長田忠致親子はどうなったか?
義朝の首を平清盛に届けて恩賞にあずかったものの、その少なさに、『せめて、美濃の国と尾張の国ぐらいは、ちょうだいしたいものだ』と、不満を
言って、清盛から怒りを買ったという。
その後、義朝の息子たち(頼朝、義経)が平家打倒の兵を挙げると、のうのうと源氏側についている。
頼朝も、この時は寛大なところを見せ、味方の列に加わることを許している。
しかも…
「一所懸命働いたなら、美濃と尾張をやろう」 などという約束までして…
それを聞いた長田親子は、義経と共に戦い、存分にその勇猛ぶりを発揮したという。
しかし、平家が滅んだあと、義朝の法要が営まれ、義朝殺害の犯人である長田忠致・景致父子は、義朝の墓前で極刑に処せられたという。
やはり、武士政権樹立のために、兄弟親族をも殺した頼朝が親の仇を許しておくはずがないのだ。当然、約束は反故にされた。
この時、頼朝は「約束どおり、美濃尾張(身の終わり)をくれてやったのだ」と、言ったとか言わなかったとか…。
ひぇ〜、むごい!
なんともはやな結末である。それにしても…、このサバ神社巡りのきっかけになったのが、美濃尾張の国境…岐阜県羽島郡柳津町だったというのも、不思議な因縁である。
野間大坊にも、その前年に行っているし…、なんだか、この記事を書くことが予想されていたような…ぶるぶるぶる
ちなみに、下手人である長田忠致の子孫は、江戸時代になると源氏の流れを自称する徳川家にはばかって『永井』と改名した。その末裔には、なんと作家の永井荷風と、あの三島由紀夫がいる
そうだ。
サワ…サマ…サバ…
「すいません。もうひとついいですか?左馬の字は、義朝の左馬頭でいいとして、魚の鯖の字が付けられた意味がわからないですけど」
「江戸時代の本草学(医学に関する学問)の本によれば、鯖という魚は非常に薬効が高かったそうです。昔から疫病除けとして祀られていたそうですよ」
鯖は腐りやすかったり、アニサキスという寄生虫がいたりで、食中毒やアレルギーの原因だと思っていたけれど、どうやら江戸時代は薬として利用されていたらしい。
う〜ん、サワとサマとサバ。これが結合して「サバ神社」が生まれたってことか。まてよ、左馬は鯖はわかるが、佐波とか左婆とか字が違う神社があるのは
何故だ?それにも深い意味があるんだろうか?
「たぶん、書き写す時に間違えたんでしょ」
ゴォ〜ン!神社の鐘が鳴った。
「草書で書かれたものは、読みづらいでしょ。ま、それを書き間違えたとしても、読めればよかったんですよ。昔は…」
確かに、昔の人は漢字表記に対して大らかだった。新編武蔵風土記なども、相当いい加減な表記が多い。現代は、逆にうるさすぎの感は否めないけど…、それにしても、そんなオチかよ。
藤本さんにお礼を言い、ついでに『源義朝を祀るサバ神社その謎に迫る』の本も購入して、帰路についた。
藤本さんのおかげで、境川流域のサバ神社のいわれについては、なんとなく理解できた。
でも、すべての謎が解けたわけじゃない。
境川には、まだ一つ『西俣野の左馬神社』というのがある。引地川には、岐阜県と同じ『佐波』の名のつく神社がある。
そして、和泉川沿いの三つのサバ神社の祭神は、義朝ではなく、源氏の祖である源満仲(みつなか)なのだ。
きっと、義朝公とは違った謎をはらんでいるに違いない。
よし、残り五つ。旬を迎える秋口にでも、調べに行ってみるべぇ。
調理法はやっぱり味噌煮。味噌はやっぱり、愛知県の八丁味噌でしょう。尾張でなく、三河の味噌
を使うところが、このレシピのミソ。
終わりの身そ、じゃ縁起悪いからね。
歴史探偵・高丸
参考サイト…RELHAMさんのホームページ
『境川流域のサバ神社』
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