■ひろたりあん通信バックナンバー
 ▼2009年5月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■街道を往く 大山街道編 18

長い蔦の寺
 長津田駅南口を出て左に行く。八千代銀行を右折して、広くなった商店街の道路を渡ると、すぐ左手に『武相観音二番 曹洞宗 随流院』と書かれた看板が立っている。

 入口が奥に引っ込んでいるせいか、地元の方でもここに寺があることを知る人は少ない。経営されている田奈保育園が昭和26年創立と古いので、そちらのほうが有名なようだ。寺の由緒によると、創建は正中元年(1324年)、鎌倉時代末だという。

「津屋さん、この随流院が長津田の地名の語源になったという話を知っていますか?」

「えっ、聞いたことありませんねぇ」

「昔は天台宗の寺で、山号を長い蔦と書いて長蔦山(ながつたざん)、寺の名も同じく長蔦寺(ながつたじ)と言ったそうなんですよ」

「長い蔦? 植物の蔦ですか?なるほど。そういえば、崋山の『游相(ゆうそう)日記』にも長蔦と書いてありましたね」

「日記には、何故か長津田と長蔦の両方書かれているんですよ」

「宮澤さん、ちょっと待って下さい。長津田は、『ながつだ』か『ながつた』か、どっちが正しいのかという論争があったと聞いているんですけど…。植物の蔦だとすると『つた』と濁らない方が正しくなりますねぇ」

「そうですね。連濁するのかしないのか? インターネットで調べたら、濁る方の説明として長い谷津田(やつだ=湿田)という説が出てました。長い湿田という意味ですね」

「確かに、長い谷津田なら『つだ』と濁りますねぇ、けれど、この辺りでは谷津田とは呼ばず、谷戸田(やとだ)とよぶんじゃないですか?」

「ですよね。津田の意味が分からなくて、無理やり谷津田を持ってきたんでしょうか?他にも、長津と田の合成地名だという説も出ていました」

「ナガツとタ…それだと濁りませんね。津は港とか入り江とかの意味がありますから、長い港…ですか? 田は…」

「田はもちろん田んぼの意味もあるんですけど、彼方(カナタ)此方(コナタ)といった方向を意味する場合もあります。ツには助詞のノの意味もあります。もっと言うとナガには長いという意味だけでなく、流れるとか薙(な)ぐとか、侵食・崩壊地形を表す意味や、中の濁音化という説もあります」

「はははは、困りましたねぇ」

「地名の意味は文献にもなかなか載っていませんからね〜、地形や方言など、いろいろな観点から推測するしかないんです。だから地名推理なんですよ」

「で、宮澤さんの推理はどうなんですか?」

「どの説も決め手に欠けますね。JRも東急も駅名は『ながつた』と濁りません。自分も濁らない方じゃないかと思うんですけど…でも、さっきの長い蔦説は特に気になるんですよ。ただ、ツタも植物の蔦だけでなく、伝う(つたう)、つまり続くという意味があるんですね。古い地名だとすると、漢字の意味を外して考えなくてはいけない。けれど長津田の地名が出てくるのは、永禄二年(1559年)に編纂された『小田原所領役帳』からで、それ以前は『都筑が丘』と呼んでいたそうなんですよ」

「ほぉ、都筑が丘の方が新しい地名に思えますね。現代でも通じるような」

 ただ、都筑が丘がどの辺りを指すかは定かではない。

 

大林寺の墓
 鎌倉末期に創建された長蔦寺が、大林寺の末寺となり、随流院と名前を改めたのは慶長六年「関ヶ原の戦い」の翌年にあたる。

 大林寺は、長津田の領主・岡野家の菩提寺である。寺の縁起によると、元亀元年(1570年)板部岡江雪斎によって開山したとなっている。

 しかし、新編武蔵風土記では、息子の房恒が父江雪斎の菩提を弔うために建てたとある。時代も天正・文禄の頃とあるから、20年のギャップがある。いずれにしても、長蔦寺は大林寺よりも250年近く古い。

「横浜線が出来たことで、随分小さくなっちゃいましたが…古刹ですよ。この寺の本尊は『火ぶせ観音』なんですが、元々は岡野家の奥方様の守り本尊だったそうです。何度も火災を免れた観音様だということで、長津田宿の火難除けに領主がこの寺に祀ったといわれています」

「荏田宿の常夜灯もそうでしたが、宿場町では、火事は何よりも恐ろしい災害ですからねぇ」

 数年前に長津田駅から霧が丘方面に抜ける道路が出来た。それまでは、八千代銀行を右折した道は、大山道の道路にぶつかるT字路だった。そこにあった金物店などが立ち退いて、国道246号に抜ける広い道が出来たことで、かつての長津田が想像できないほど明るくなった。

 大林寺は、その広い坂道の途中にある。かつては、長津田郵便局横の路地を抜けねばいけなかった寺も昨年11月に本堂や山門などの建て替え工事が完了して、見違えるほど立派になった。

「この寺には見るものが二つあるといわれていますね」

嘉元元年の大板碑は、延命地蔵尊の傍らにあった。

「長津田領主岡野家代々の墓と、それから嘉元元年(1303年)の大板碑ですね。あっ、もうひとつ。引田天功の墓もありますよ」

「そうでした。いまの人は引田天功といっても知らないでしょうね」

「死の大脱出、子供の頃は手に汗を握ってドキドキしながら観てました。いま引田天功といったら、二代目のプリンセス・テンコーを思い浮かべるでしょう」

 顕彰碑には、伴淳三郎や師匠の松旭斎天洋、はかま満緒、そしてデビュー当時アイドル歌手だった朝風まり(プリンセス・テンコー)の名も刻まれている。

 

 

大石神社の伝説
 長津田南口入口の信号まで戻って、大山道(御幸通り)を西に進む。進むにつれ、再び道は狭くなり、徐々に上り坂となる。

 

 宿の家並みが途絶えたあたり、信号から250メートルほどの所に、右斜めに伸びる白い坂道が見える。長津田の鎮守・大石神社の境内へ続く女坂だ。男坂は、そこから更に50メートルほど行ったところにある。こちらは急な石段を上る。

 女坂の途中に上宿の常夜灯があるのでこちらを上る。常夜灯は最初、女坂の下右側の小高いところにあったそうだ。

 昭和62年に現在地に移された。下宿の常夜灯は大山講の人びとによって建てられたが、女坂の常夜灯は荏田宿の常夜灯と同じで、秋葉講の人たちによって建てられた。秋葉山は火防(ひぶせ)信仰だ。ただし、こちらの方が18年ほど古い。

 境内に出ると一瞬、奇妙な感覚に襲われた。広い境内、少し高くなった社殿、その前に、聳え立つ二本の大きなモミの木(市の名木古木に指定されている)。石灯籠と狛犬もある。ただ、社殿の周りだけに樹木が茂っていて、周りはガランと何も無い。そこだけが異次元からやってきたような奇妙な風景…と感じたのは、どうやら自分だけのようだ。

 津屋さんは、いつの間にか説明板の前に立って、熱心に由緒書きを読んでいた。
 

                                     次号、最終回へつづく
 



 

※荏田宿〜長津田までの地図をクリアファイルブックに綴じたもの。現在恩田まで完成しています。それ以降の地図は連載にあわせて随時お届けします。

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