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| ▼2009年6月号 |
| 地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」 |
■街道を往く 大山街道編 18![]() 拝殿の左手、「大石神社について」と題された説明板には、いきなり「当社の由緒は詳らかではない」と書かれていた。しかし、その次に(在原業平朝臣を祀ったものと伝えられる)と記されている。 在原業平(ありわらのなりひら)といえば、平安時代初期の歌人である。平城天皇の孫、つまりは天皇家の嫡流であるが、朝廷内の紛争によって臣籍降下したため、在原氏を名乗った。 「ちはやぶる 神世もきかず 竜田川…」 「…唐紅(からくれなゐ)に 水くくるとは…、百人一首ですね。津屋さん」 「古今和歌集にも、三十首入っています。六歌仙のひとりでもありますね」 「絶世の美男子で、自由奔放なプレーボーイだったとか、あまり、好感は持てませんね。田奈の郷土史には、東国へ下向したときに、愛人を連れてきたので、その愛人の恋敵によって取り囲まれ、火をかけられたと書かれてましたね。焼け跡には人影はなく、大きな石が一個残されていたとか…」 「神世も聞かない不思議な話ですね。でも、何で業平なんでしょうね?」 伝説はともかく、ご神体が石であることは間違いない。楕円形の自然石が四角い台石に嵌め込まれて祀られている。武蔵風土記稿には、「昔武相の国境にあって、両国の百姓が争ったが、神意によってこの地に落ち着いた」というようなことが書かれている。
武蔵と相模の境とは、東名の横浜町田インターの辺りにあった『元石(元大石)』という地名の場所ではないかと推定されている。
お七稲荷 「お、元禄七年といえば、赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が高田の馬場で決闘した年じゃないですか。大石神社からの連想ですけど」 「確かに、大石神社とくれば、赤穂や京都山科の大石神社をイメージしますねぇ。宮澤さんのように、なんでも有名人と結び付けてしまう発想が、在原業平のような伝説を生んだのかもしれませんよ」 「なんでもって…う〜ん、確かに。でも、日本の観光地なんかは大抵そうですよね。実在したか分からない人物までその土地に来たことにしてますから」 「有名人といえば、大林寺の近くに八百屋お七の伝説もありましたよね?」 「コメダ珈琲の隣のお七稲荷ですね」 先の領主、岡野家三代目の平兵衛房勝が、火あぶりの刑にされたお七の事件の時に盗賊追捕役であったことや、当時、事件を担当した中山勘解由(かげゆ)の娘を、房勝の孫、成路(しげみち)が妻にしたことなどから、領主の短命や世継ぎが病気がちなのは、お七のたたりではないかといわれ、お七稲荷(福寿稲荷)を祀ったといわれている。 「因みに、中山勘解由は、盗賊改(あらため)と火付改が一本化して『火付盗賊改』になる以前に、『鬼勘解由』と呼ばれて恐れられていた人物ですよ。いわば『鬼平』こと長谷川平蔵の先輩になりますね」 「ははは、また有名人が出ましたね」 お七稲荷のすぐ近くに岡野家の屋敷があった。現在の長津田幼稚園一帯である。岡野氏は幕府滅亡後、徳川家に従って静岡藩に居たが、廃藩置県のあと、長津田に帰農した。その時に建てた屋敷が大林寺の西にあり、地元では長く「お屋敷」と呼んでいた。 また、お屋敷の東の高台は(お倉)と呼ばれ、年貢米を貯蔵する土蔵があったそうだ。現在は、大林寺の管理する式場『山水閣』があるが、それ以前は、長津田小学校が建っていた。
長津田から先の大山道
新たな目標 大石神社に参拝を済ませ、津屋さんに尋ねる。まだまだ余裕で歩ける様子だが、津屋さんは一度赤坂から大山まで歩かれている、これ以上、付き合ってもらうのも気が引ける。 「そうですね、荏田宿から長津田宿までで、ちょうどキリもいいようですし」 この先、鶴間、さがみ野と続くが、それはまたの機会ということで、一旦大山街道散策の旅を終える。 無責任で申しわけないが、ここから先は、中平龍二郎氏の『ホントに歩く大山街道』を参照されたい(私も今回、大いに参考にさせていただいた)
陸軍の大演習は、御野立から眼下に広がる長津田駅東北の原で行われた。この場所から、長津田駅と恩田川、あかね台方面が見渡せる。ちょうど、線路の反対側に、かつて東光寺という寺院があった。長津田第二小学校から線路の南側まで広大な寺院だったそうだ。そのため、この一帯を東向地という。 「東向地の読み方がしばらく分からなかったんですが、東光寺と音が同じでトウコウジと読むそうです。片町の地蔵堂から大山道と同じ経路を辿って来た鎌倉道は、大石神社の手前で右に折れ、あの線路の向こうにあった東光寺に続いていたんです」
金毘羅神社から長津田地区センターの横を通り、線路に沿って駅へ向かう。アパートが立ち並ぶ細い坂道を降りて行くと、いきなり右手がパッと開け、広い駐車場が現れた。 「乾繭倉庫跡ですね」と津屋さん。 乾繭倉庫とは、繭を乾燥させて中のサナギを殺し、カイコガが繭を破れないようにして、いつでも製糸作業ができるよう貯蔵した場所である。 「じつは宮澤さん。市ヶ尾を歩いてから、ずっと『絹の道』のことが頭を離れないんですよ。もしよかったら、次は『絹の道』を歩きませんか?」 今年は、横浜港が開港して150年になる。当時、横浜から世界に輸出された品物の約70パーセントを占めていたのは、シルクであった。 もちろん、この横浜線も主要なシルクロードである。しかし、鎌倉街道や大山街道と同様、シルクロードは一本しか無かったわけじゃない。八王子→市ヶ尾→横浜のルートもあったはずである。
「いいですね。自分も絹の道は調べてみたいと思っていたんですよ。歩きましょう」 「それは良かった。そうと決まれば、ルートを調べなければいけませんね。どこから始めますか?」 「そうですね…、じゃ、一杯やりながら作戦を練りますか」 「名案ですね。では、いつもの店で…」 かくして、新しい目標を見つけた二人は、作戦会議のため藤が丘の『○蔵』へ向ったのであった。
※荏田宿〜長津田までの地図をクリアファイルブックに綴じたもの。現在恩田まで完成しています。それ以降の地図は連載にあわせて随時お届けします。
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