■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2009年11月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く プロローグ Vol.4

 またまたドラマの話で恐縮だが、日曜夜九時からやっている日曜劇場『JIN-仁』が面白い。

「脳外科医が、幕末の江戸へタイムスリップしてしまい、満足な医療器具も薬もない環境で江戸時代の人々の命を救う」という、漫画が原作の、いわゆる歴史SFという荒唐無稽な話なのだが、これが中々見応えがある。正直、大河ドラマよりも時代考証など丁寧に制作されている。幕末の江戸の写真と現代の同じ場所の写真をオーバーラップさせて対比させるという、テレビ版「わが町今昔」風のオープニングも好い。

 坂本龍馬や勝海舟、緒方洪庵といった実在の人物も登場するが、役者の演技も上手いので、違和感が無い。因みに、坂本龍馬役の内野聖陽(まさあき)さん、「風林火山」の山本勘助の時から注目している大好きな役者さんだが、港北区出身で、実家は小机駅前の「雲松院」という由緒のあるお寺だそうだ。

 何故いきなりドラマの話になるのかというと、このドラマで、主人公の医者がタイムスリップする年代が、まさに「生麦事件」があった文久二年(1862)なのである。

 当時、江戸の町は、コレラが大流行している。これを主人公が現代医学の知識を使って治していくというストーリー。舞台が江戸ということで、今後、生麦事件が描かれるかは不明であるが(原作には、それらしい箇所が出てくるらしい…すみません。まだ原作読んでいないものですから)

これからの展開が大いに気になる番組であることは間違いない。
 

薩摩人の評価
さて、慰霊祭も自顕流の演武も無事終了し、生麦参考館において酒席が用意され、出席者に料理が振る舞われた。

 宴もたけなわの頃、一人の男性がスクッと立ち上がるなり、山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう)が詠んだという七言絶句を朗々と吟じ始めた。

 親王が明治初期に「老将」(=島津久光)の事件を回顧されて詠んだ「薩州老将髪衝冠」で始まる漢詩で、参考館の中庭に石碑が建てられている。 

 歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫の方で、除幕式には、薩摩藩士の子孫の方が三十人ほど訪れたそうである。

 鹿児島で浅海館長の講演を聴いたという方が何名かお見えになっていた。皆さん、講演を聴くまでは、「短慮な薩摩人が、戦争につながるような、とんでもない事件を引き起こした」という認識だったそうで、鹿児島県人が明治維新を語る場合でも、生麦事件の話は自然と避けていたという。館長の講演を聴いて認識が改まったと、ビールを飲みながら笑っておられた。

 意外であった。生麦事件のような過激な行動こそ、薩摩隼人の面目躍如ではごわはんか!と誇りにしていると思った。

 鹿児島といえば、西郷どんの人気は絶大である。次が島津斉彬だろうか、篤姫も大河の人気というか、宮崎あおいの人気で急上昇。同時に若き家老、小松帯刀(たてわき)も評価が高まった。

 彼の場合、西郷・大久保の後ろに隠れて評価が低すぎた。

 生麦事件のあと、彼の冷静な判断が、外国人居留地と薩摩藩の一触即発の事態を回避できたのだし、薩長同盟も彼の聡明さあってこそだ。

 こんなことを書くと、薩摩人に怒られそうだが、西郷や斉彬の人気は、多分に小説やドラマの影響のような気がする。特に西郷という人物は、謎めいていて、本性が分かりにくい。写真も残っていないし、隠密として働き、権謀術数で薩摩藩を誘導していったというイメージが(あくまでも、自分の評価だが)拭えない。

 相楽 総三(さがら そうぞう)率いる赤報隊を使い捨てにした件といい、坂本龍馬暗殺黒幕説といい、『敬天愛人』の思想と相反する行動、イメージとの乖離は否めない。 果敢に国づくりに邁進した大久保利通の方が、よほど政治家としては評価できる。

 評価できるといえば、生麦から薩英戦争におけるイギリスと薩摩、幕府と薩摩のやりとりを見てみると、薩摩藩の外交担当者の能力の高さには驚かされる。

 幕府役人のおどおどした対応と違い、外国人相手に堂々と交渉するその姿は、小気味いい。今の政治家にも見習ってもらいたいものだ。この辺りの描写は、吉村昭著「生麦事件」に詳しい。

 明治維新の立役者は有名人だけが活躍したのではない!ということが、よく分かる。

外人墓地に眠る三人
 今も執筆活動の傍ら、研究者として活動をされている浅海館長。10年ほど前、講演会の謝礼の中から、約400万の修繕費を出して、事件で死亡したリチャードソンの墓を改修された。

 当時、草は生い茂り、墓石の痛みも激しかったそうだ。

 重傷を負った三人は、事件の後、どうなったのか?

 まず、無傷だったマーガレット・ワトソン・ボラディル夫人(香港のイギリス人商人トマス・ボラディルの妻)だが、彼女は事件後、香港からイギリスに帰国した。

 のちに娘を出産したが、難産のため亡くなったと伝えられる。事件から8年後というから、まだ三十六歳である。 事件当時が二十八歳、精神的なトラウマがあったことは想像に難くない。

 横浜のイギリス人会社員「ウッドソープ・チャールス・クラーク」は、アメリカ商社、ハード商会の社員で、事件の年に上海支局から横浜支局へ派遣されている。

 この時二十八歳、肩に後遺症が残ったが、事件後も横浜で引き続き仕事に従事している。事件の後遺症だろうか、五年後に三十三歳という若さで亡くなっている。

 「ウィリアム・マーシャル」は、開港された横浜に在住する生糸商人で事件当時は三十五歳であった。彼もまた横浜で仕事を続けている。亡くなったのは十一年後、四十六歳であった。

 二人とも若くして亡くなっているのは、やはり事件の後遺症が原因だろうか?

 2006年、彼ら二人の墓は、地元の有志が募った募金でリチャードソンの墓の脇に移設された。

 それにしても、あれだけの事件の後も日本を離れず、結局、異国の地に骨を埋めたというは、どういう訳だろう?長時間の船旅に耐えられない傷だったのか、よほど日本が気に入っていたのか、それとも、商売繁盛で帰るに帰れなかったのか…。

生糸を商っていたというマーシャルが気になった。 

          つづく

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