■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2010年2月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 横浜編 Vol.2

「松蔭先生はすごい御方じゃ!」と、大河ドラマで桂小五郎が激賞していたが、確かに吉田松陰先生は天才である。

 幕末の偉人…いや、歴史上の人物を誰か一人選べと言われれば、真っ先にこの名が浮かぶ。それほど、私も心酔している。山口県萩の松蔭神社には、これまでに四度足を運んだ。つい先日も、世田谷区にある松蔭神社に参拝してきた。松蔭先生の魅力は…と調子にのって書いていたら今月分すべて松蔭の話しになってしまった。

いかんいかん、書き直し。

 松蔭先生のことを知りたい方は、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』を読むか、生誕一八〇年を記念して作られた映画『獄(ひとや)に咲く花』(関東は4月公開予定。原作、古川薫氏『野山獄相聞抄』)をご覧下さい。

松蔭と商人
 さて、松蔭先生が弟子の金子重之輔と二人で、伊豆下田からペリーの黒船に乗り込み、密航を企てようとしたのが嘉永七年(1854)の三月二十八日。結果は周知のとおり。

 アメリカ側に乗船を拒絶されて失敗し、自ら奉行所に出頭して投獄されるのだが、じつは松蔭、最初から下田に向かったわけではない。事件の二十二日前は、東海道の保土ヶ谷宿に潜んで、ペリー宛の手紙をしたためていた。この三日前に横浜で日米和親条約が締結されたからだ。このあとまさか、下田へ向かうとは思ってもいなかった。

 その保土ヶ谷の宿に、ひとりの人物が密かに訪ねてきた。誰あろう、あの中居屋重兵衛である。

 松蔭にとっては、佐久間象山門下の兄弟子にあたる。

 確証は無いが、象山の意を受けて松蔭との連絡係をしていたのではなかろうか。たぶん、ペリーが下田に向かったことを教えに行ったのだろう。

それを聞いた松蔭、慌てて下田へ向かう。

 

先にも述べたが、この年に重兵衛は外国人相手に密貿易を行っている。

 重兵衛も、何とか外国船に近づけないものかと横浜辺りをうろついていた。そこで、黒船に荷物を運び入れている相撲取りの姿を見つける。幕府はペリーに進呈する品物を力士に運ばせていたのだ。

 その中に重兵衛が贔屓にしている小柳という力士がいた。彼は小柳に頼んでアメリカ側に渡りをつけてもらい、自らも人足に化けて外国人に近づいた。そして、絹織物を売りつけることにまんまと成功したのである。

 重兵衛は、ペリーが下田に向かうことを知ると、今度は故郷の上州(群馬県)に取って返した。ここが松蔭と商人の思想、考え方の違いである。

 上州で生糸を仕入れた重兵衛は、そのまま下田に直行し大儲け。ただ、儲けただけでなく、外国事情もしっかりと調査している。 

 象山も密航を教唆した罪を問われ蟄居させられているので、重兵衛だけがオイシイ思いをしたことになる。

義をもって利となす
 幕府が諸外国を納得させるため、横浜の町造りを急がせ、江戸をはじめ近隣諸国の富農や豪商に対し、強制的に移住を命じたこと。当時、日本橋に店を構えていた重兵衛も命じられた一人だということは先月号で書いた。

 だが、どうも彼の出店は下田事件の翌年に内定していたらしい。懇意にしている外国奉行・岩瀬忠震(ただなり)らが便宜を図ったのだろう。広大な土地を借り受け、屋根に銅の瓦を用いた「あかね御殿」と呼ばれる屋敷を建てた。豪奢にしたのは外国人に侮られないため、外国奉行からの示唆があったという。

 のちに神奈川奉行から「町人の身分で二階建て、しかも御禁制の銅瓦を葺くなどとは、もってのほかである」と咎められるが、まさにこの時「安政の大獄」という嵐の真っ只中。懇意の外国奉行たちは、悉く井伊直弼によって罷免されていた。

 桜田門外の変が起きたのは、重兵衛が奉行所に呼び出された半年後である。

 井伊大老暗殺の報が飛脚によってもたらされたとき、重兵衛は飛び上がらんばかりに喜んだという。何故なら、大老に致命傷を与えた短銃こそ、重兵衛が水戸浪士に提供したものだったのだ。 

 重兵衛のイデオロギーは「尊王開国」。水戸の浪士らが掲げる「尊王攘夷」とは相容れない。それでも、彼らに協力したのは、松蔭も含め、有為な人物が次つぎと抹殺されていくことへの義憤。そして「利を以って利となさず、義を以って利となす」という重兵衛の行動哲学のあらわれだろう。

 翌年、重兵衛は突如横浜から姿を消す。水戸浪士との関係が幕吏の知ることとなったため、家族に累が及ぶのを恐れて逃亡したという。影武者を使って逃げ延びたとも、千葉で死んだとも伝えられる。「あかね御殿」も莫大な財産も火災によって焼失した。

 坂本龍馬のように、世界を股にかけて商売することを夢みていたというが、じつにミステリアスな人物である。

原善三郎
 店を構えてわずか二年。彗星の如く現れ、彗星の如く去った重兵衛の姿をじっと見据えて、時を待っていた人物がいる。

 中居屋に荷主として店に商品を置いてもらっていた『原善三郎』である。

 「原の目」と呼ばれる鋭い眼力で、生糸の品質を見抜き。自分の目に適った良質な糸だけを仕入れる。地道で堅実な商法は、江戸で評判を呼んだ。

 生麦事件をはじめ、尊攘浪士の殺生事件が頻繁に起きていた開港直後の横浜を「四、五年経ったら面白かんべぇが、今じゃぁ地獄の一丁目でがんす」と警戒していた善三郎が、横浜に「亀屋」という店を出したのは、慶応元年(1865)、重兵衛が失踪した四年後である。場所は横浜弁天通3丁目、荷主から生糸を買い上げる売り込み業者に転じたのである。

 善三郎の出身は武蔵国渡瀬村、現在の埼玉県児玉郡神川町である。じつは十年前に、この地を訪れている。しかも二回。生家の近くには、御室ヶ獄という山をご神体とする金鑚神社、その下を流れる神流川。庭石として有名な三波石が産出する三波石峡がある。

まさか、彼のことを書くことになろうとは…。不思議な縁である。

             つづく  


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