■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2010年4月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 横浜編 Vol.4

 三渓園。いわずと知れた横浜を代表する観光地…いや、三年前に国の名勝に指定されたので、日本を代表する日本庭園である。

 先月号の『夢の吹く丘』でご紹介した佐藤畳店の二代目若大将が、三渓園に畳を納めているという話が飛び込んできたのは、地名推理で原三渓の話を書いている、まさにその時。

 記事を書いていると…この(偶然)というものに、よく出くわす。「世の中に偶然などというモノはない、すべては必然なのだ」と誰かが言っていたが、だとすると、こうした出会いは全て目に見えない力によって引き合わされたということになる。

「行き当たりばったり、計画性がないから、そう思えるんだよ」と周りの人間は笑うが、プロットを考えないからこそ起こり得るのだ。

 今回、原三渓の生まれ故郷の公民館(柳津地域振興事務所)に思いつきで寄った日が、『原三渓展』の最終日だったというのもその一つ。

 おかげで、図書室に行って資料を探す手間も省け、系図や生家の写真なども目にすることができた。

 そうそう、この年(平成二十一年)が、三渓の生誕百四十年、没後七十年の記念の年だったこともこの時知ったが、こういった巡り合わせも必然なのである。

織物の産地
 ちょうど展示物を読み終わったタイミングで、係の人が生家跡までの地図をコピーして持ってきてくれた。

 その地図を手に公民会を出て、その前の道を西に行く。800mほど歩くと境川に出た。戦国時代まで美濃と尾張の境を流れていた旧木曽川だ。大洪水で流路が変わり、今では長良川に注ぐ支流となっている。

 三渓(青木富太郎)の生地である佐波村(さばむら、現在の羽島郡柳津町)は、美濃の国の中心、加納藩の領地であった。岐阜駅の南800mほどの所に、石垣、土塁、堀跡と加納城の遺構が残っている。

 境川は、そのすぐ近くを流れて、佐波村まで下る。

 岐阜といえば、織田信長の居城であった金華山の岐阜城が有名だが、加納城は、関ヶ原の合戦後に破却された岐阜城の建材を使って建てられたのだ。

 話が逸れた…。

 ようするに、佐波村は加納藩永井家三万二千石の領地だったということだ。

 境川に架かる橋の手前に、『カラフルタウン岐阜』というショッピングモールがある。 (最近は、どこに行ってもこうした巨大ショッピングモールを見かける)

 すぐ隣の『トヨタ紡織(ぼうしょく)』という会社の工場跡地に建設されたそうだ。運営は『トレッサ横浜』と同じトヨタグループの会社だということは後で知った。

 『トヨタ紡織』は自動車内装品などを作る会社だが、ルーツは言うまでもなく、世界のトヨタの礎を築いた豊田佐吉の『豊田式織機』である。

 因みに、ここ柳津と織物で有名な愛知県の一宮市とは、木曽川を挟んで数キロしか離れていない。

 この辺りは、古くから綿織物の産地で、養蚕や製糸も盛んであった。三渓が、のちに富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸業を営むのも、幼少期の経験が関係しているのであろう。

 また、岐阜は信州や上州の生糸を京都に運ぶ中継地でもある。このあたり、秩父絹を江戸の呉服問屋へ送る中継地であった義理の祖父、原善三郎の生誕地と似ている。

サバと境川
 橋を渡ると、気持ちのいい川風が吹いてきた。広々とした空と河川敷がなんとも言えず清々しい。橋の上を県道が走り、車の騒音が喧しい現代でさえ、そう感じるのだから、明治の初めの頃はどんなに静かで平穏な土地であったか。

 三渓の生家である青木邸址は、川を渡った、すぐ左手の住宅街にあった。現在は天理教会の建物になっている。

 まわりを見渡すと、ビルの上に(アオキ)の看板。(洋服屋ではない)地図には、青木染工場、株式会社青木、青木進学塾、と青木の文字が散見する。さすが、佐波村きっての名家である。

 富太郎(三渓)は、筆頭庄屋(戸長)青木家の長男として生まれた。17歳で上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。学生をしながら、跡見女学校の歴史の先生をしているときに、原善三郎の孫娘・屋寿子と恋仲になる。 

 そして、善三郎に気に入られて養子縁組を結び原家に入るのだが、普通、長男が他家に養子に行くことなど考えられない。よく青木家の親が許したと思う。

 

 二十代の頃に出雲地方を旅していて、「あんた、養子にならないか?」と誘われたことがある。

 「今なら車も家も付いてくるよ」と、通販番組のようなセリフに心がグラッときたが、そのことを親に話したら「長男が、なにバカなこと言ってる!」と、すごい剣幕で怒られた。恥ずかしながら、財産のない我が家でさえこうなのである。

 偉いのは、富太郎の父親だ。息子の可能性を信じていたからこそ、涙を飲んで決断したのだろう。


原三渓(青木富太郎)と 妻の屋寿子

 帰り道、橋の上からもう一度、境川の流れと佐波の住宅街を振り返った。

 「境川と佐波という組み合わせ…、どっかで聞いたことがあるぞ。何だっけ?…あ、『七さば巡り』だ」

 東京町田から相模原、横浜、大和、藤沢の市境を経て相模湾に注ぐ境川。その中流域に左馬、佐婆、佐波、鯖とサバの名がついた神社が十二社ある。

「七さば巡り」とは、一日のうちに七社のサバ神社を回れば、麻疹(はしか)や百日咳などの疫病を祓うことができるという古来からの風習である。祭神の源義朝の官職が左馬頭(さまのかみ)だったから…などの説があるが、サバの由来は定かではない。

 サバと境川には何か因果関係があるのだろうか? あ、また話が逸れた…。

本牧三之谷
 川面を見ていたら、公民館の展示資料に書かれていたことを思い出した。

 境川は暴れ川で、佐波の人々は洪水に何度も泣かされた。そのつど、立ち上がる農民たちを支えたのは大地である。

 土地はどんな時代も価値を失わない。その教訓を三渓は生まれ故郷で学んだ。そして、祖父善三郎に儲けた金で土地を買うことを勧める。

 こうして買い求められた土地が本牧三之谷である。

 明治三十五年、富太郎は六万坪の広大な三之谷に移り住み、名を三渓と改めた。
 

つづく

 


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