■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2010年12月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 八王子編 Vol.5

  守衛室のある門も、その向こうに見える事務所らしき建物も明らかに年代物。門の前を流れる小川と桜の木が、いっそう趣を醸し出している。

(映画の撮影所みたいだな…)

 秋川街道を初めてバスで通ったときの感想である。

 「日本機械工業」の看板がなければ、例のレトロな建物同様、降りて確かめるところであった。それにしても、消防車を作る会社であったとは…。

八王子製糸所
 先日の墓参の帰り、しばらくぶりに西中野三丁目で途中下車した。

 例の建物は相変わらず昭和の香りを漂わせている。隣の日本機械工業も最初のイメージとまったく変わっていない。敷地内に駐車してある数台の消防車は、やはり、撮影に使われる劇用車に見える。

「すいません。ちょっといいですか?」

 門の横の守衛室に声をかける。現れたのは、とても穏やかで紳士的な守衛さん。

 門構えの雰囲気から、いかつくて無愛想な警備員を想像していたので、少しホッとした。

「古いですよ、八王子製糸所の頃からのものですから」

 同じような質問が今までにもあったのだろう、建物のことを尋ねると、即答で返ってきた。

 大正11年創業の日本機械工業が鶴見から八王子に工場を移したのは昭和18年。それ以前は、片倉製糸の工場『八王子製糸所』だったという。

 『片倉製糸紡績株式会社二十年誌』(社史で見る日本経済史 第8巻)を紐とくと、『八王子製糸所』について次のように書かれていた。

【明治三十四年十二月、経営不振に陥った八王子の製糸王・萩原彦七の製糸工場を譲渡された翌年(明治三十四年)の三月より一六〇釜をもって操業。関東機業地の中心地であったため、地遣糸(ちけんいと)の販売も兼業した】

 地遣糸とは日本国内向けの生糸のことだ。

【欧州大戦(第一次世界大戦)当事の好況に際し、六〇〇釜に拡張。大正十一年、乾燥場より失火し、全工場を烏有(うゆう)に帰(き)せしめたが、灰燼いまだ冷めざるに早くも復旧工事に着手し…翌十二年八月全設備の完成を見るに至った】

「烏有に帰す」とは「すっかり無くなってしまった」という意味。ということは、目の前の事務所棟は、その時に建てられたものだろう。

「そうですか。駐車場にも古い建物がありますよねぇ?」

「ああ、あれは蚕を育てていた建物ですよ」

「蚕…、よ、養蚕っていうことですね」

「そう聞いています」

 やはり養蚕のための建物だった。昭和12年(1937)に建てた、間口9m、奥行き25mの蚕室と書かれているのがそれだ。

 片倉製糸は、昭和五年に栽桑研究所(試験場)をすぐ近くの川口村に建設し、蚕に食べさせる桑の品種や土壌、肥料などの研究も行っている。

片倉小十郎登場
 川口村は、浅川から秋川街道をさらに2kmほど北に行った地域、現在の川口町・上川町・美山町・犬目町・楢原町・清川町がそれにあたる。

 中世川口郷を治めた『川口兵庫介の館跡』をはじめ、歴史的な遺跡が多く残っている。

 ちなみに、私の祖父母の墓はその川口町の長福寺にある。 長福寺は別名を『萩寺』という。その由来は仙台から移植された『宮城野萩』で、歌舞伎の『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』や、山本周五郎の小説『樅ノ木(もみのき)は残った』で有名な伊達(お家)騒動の時の藩主・伊達綱宗ゆかりの寺である。

 物語では、暗愚で酒食に溺れ、藩政を顧みなかったため、二十一歳で隠居させられた、どうしようもない藩主として描かれている。(これについては根拠のない俗説ともいわれている)。

 実際は、書画や和歌を愛する風流人で、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残している。

 その伊達綱宗公が自ら刻んだという聖観音像が長福寺に安置されている。

 「子育て観音」と呼ばれる観音様で、伊達家の家臣である片倉家の家宝であったものが、遠縁にあたる長福寺の住職に譲られたという。

 伊達家の重臣、智勇に優れた軍師として、今や歴女に絶大な人気を誇る片倉小十郎。大河ファンなら『独眼竜政宗』の時の西郷輝彦が演じた役として印象に残っているのではないだろうか。その小十郎を祖とする白石片倉氏が突然登場した。

 正直、これを書くまでは菩提寺が伊達氏ゆかりの寺だとは思ってもみなかった。

 改めて言うまでもないが、この連載は、プロット(筋書き)を用意しているわけではない。気のむくままに歩き回り、思いつくままに書いている。いい加減かと思われるだろうが、この手法が時々思いもよらない相乗効果を生む。

 八王子編でたびたび登場する「片倉」という名前。その片倉つながりで話を進めていったら、コロコロっと伊達藩三代目藩主作の観音様が転がり出た。その観音様を家宝としていたのが、誰あろう伊達家の家臣、「片倉」氏。何ともはやな結果に、これはもしや、何か深い因縁で結ばれているのではないか?と推理した。

 果たせるかな、二つの片倉は信州諏訪で繋がっていた。

 『古代氏族系譜集成』によると、白石片倉氏の先祖は諏訪大社の大祝(おおほうり)。大祝は現人神(あらひとがみ)と崇められる神職(宮司)のことだ。

 一方、片倉財閥は、諏訪郡川岸村(岡谷市)で製糸を始めたことが起こりだ。

ついでにいうと、これを結びつけた我が先祖は、信州の生まれ。長野県に多い「澤」のつく苗字は「スワ」が訛ったもので「諏訪氏」の庶族だという。

 源流は諏訪湖の水だったのだ。

 よかった〜、個人的な墓参の話も無駄ではなかった。(ホッ!)

 

つづく
 


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