■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2011年1月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 八王子編 Vol.6

  新年おめでとうございます。日頃のご愛読、心より感謝申し上げます。また昨年は、温かい激励のお便り、ご意見をたくさん頂戴しました。一つ一つのお言葉を胸に刻み、今後の取材、創作…もとい、推理の励みとさせて頂きます。引き続きのご愛読、よろしくお願い致します。

上諏訪『片倉館』
 先月号は、製糸業で財を成した片倉財閥と独眼竜政宗の懐刀として名をあげた戦国武将・片倉小十郎の先祖が諏訪湖の水で繋がったという想定外のオチがついて終わった。

 それが本当ならば、「片倉」という地名が、諏訪湖周辺にあるに違いない。そう推理して調べてみたら、茅野から高遠に抜ける杖突街道(国道一五二号)の途中、現在の住所でいうと(伊那市高遠町藤渾)に、「片倉」という集落が存在したことが判明した。

 諏訪大社上社本宮の裏手、神体山である(守屋山)の麓だ。片倉製糸の発祥の地・岡谷とも直線で15キロほどしか離れていない。

  片倉小十郎の遠祖が、諏訪大社の宮司職という説をとるなら、これほど最適な地はない。藤澤の「澤」もスワから来ているか…?(単に山国の長野には沢が多いだけという説もあるが、澤=諏訪説をとりたい…ささやかな希望)

 諏訪には数えきれないほど訪れているが、よくよく考えてみると、「片倉」という名前を最初に意識したのも諏訪であった。

 初めて諏訪を訪れたのは、今から二十七年前。まだ二十代の前半である。

 独り旅の楽しさに目覚めたばかりで、旅の目的も、城や寺社仏閣など歴史遺産を巡るのではなく、どちらかというとグルメと温泉に重点が置かれていた。

 だからその日も、諏訪湖畔に程近い蕎麦屋で昼食をとり、日帰り温泉にでも入ろうかと、雪降る街をぶらぶらと歩いていた。ふと目に止まったのが、「天然温泉千人風呂」の文字。しかも、公衆温泉だという。

 施設の名前は『片倉館』。 向かった先に建っていたのは、温泉施設とは思えない洋風の建造物。銭湯ならぬ、尖塔(せんとう)という煙突を備えた鉄筋コンクリート製の建物は、どう見ても博物館である。

 とまどいを覚えながらも、料金(400円位だったか…)を払い、服を脱いで浴室へ。

 総タイル張り、ステンドグラスの窓、彫刻の裸像まである。千人風呂は大袈裟だが、湯船もプールのように大きい。深さも1m以上あった。

 底には黒い玉砂利が敷き詰められていて、歩くたびに足の裏を刺激する。コツコツという砂利の囁きが耳元で響くのが、なんとも不思議で、浸かっている間ずっと足を動かしていたのを覚えている。

 洋風温泉の衝撃は、鮮明に残る映像と共に、「片倉」という名も記憶した。

 『片倉館』は、昭和三年に建てられた。建てたのは、「シルク王」と呼ばれた片倉製糸の片倉兼太郎(二代目)だ。

 欧米視察の際に、チェコスロバキアの温泉施設に感銘を受けた彼は、地域住民と従業員のための福利厚生施設の必要性を痛感し、帰国後すぐに巨費を投じて『片倉館』を造らせた。

 当時、寄宿舎住まいであった女子従業員たちは、岡谷から船に乗ってやってきたという。

「企業は社会の公器。事業の発展は、従業員の福利厚生と地域との共生にある」 

 初代片倉兼太郎の信条は、二代目へと伝わり、社宅や寄宿舎だけでなく、慰安娯楽施設の劇場まで造らせた。舞台開きには、市川団十郎一座を招いたという。

 大正六年、従業員に義務教育を受けさせたいと、「私立片倉尋常小学校」を開校。「片倉」で働いていたというだけで、花嫁候補としてひくてあまただったという話も残っている。

甲府工場
 諏訪の思い出に浸りながら、原稿を書いていたら、事務員さんが一枚のハガキを持ってきた。読者の方からだという。

 何気に手にとって驚いた。そこには「終戦の年まで片倉工業(当時は片倉製糸)甲府工場に勤めていました」と書かれてあった。

 差出人は、荏田西にお住まいの金丸茂子さん。さっそく電話を入れ、取材の申し込みをした。

 片倉の甲府工場は、東青沼町(現在甲府市役所のある青沼地区)という所にあった。片倉の工場の中では、たった一つの撚糸工場である。戦時中は軍需工場に転換し、落下傘(パラシュート)を作っていたそうだ。

 当時、十七歳だった金丸さんは工場勤めではなく、事務(経理)の仕事に従事されていた。

 その頃は、自分で就職先を選べるわけではなく、学校側から指示に従って片倉に就職したという。ただ、給料も含め片倉の待遇は良かったとのこと。

「工員さんは、ほとんどが女性で、長野県の方から大勢来てました。みんな寄宿舎なんですよ。私の実家は近所にあったんですけど、社員は寄宿舎に入るのが会社の方針だということで、寄宿舎で生活していました」

 終戦の年の七月六日深夜から七日にかけて、甲府の町をB29の爆撃機が襲った。のちに「たなばた空襲」と呼ばれる大規模な爆撃だ。

 甲府工場は、その空襲で焼失した。大勢の工員さんが亡くなったという。田んぼの畦にうずくまり、九死に一生を得た金丸さん、終戦後は韮崎駅前の製糸工場を手伝ったり、社員の自宅に給料を届けるなど、残務整理に追われたという。

 当時、甲府に疎開していた太宰治も、その空襲に遭っている。

 その時の状況は『薄明』という作品に描かれているが、金丸さんのお話の方が真に迫っていて、よほど胸を打つ。

  同じように空襲に遭ったにもかかわらず、奇跡的に焼け残った工場が埼玉にある。片倉最後の製糸工場『片倉熊谷工場』だ。

 現在は、『片倉シルク記念館』に生まれかわり、貴重な歴史資料が展示されている。

つづく


※金丸さん、貴重なお話、有難うございました。

 


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