■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2011年3月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 青葉区編 Vol.1

尾作谷戸ふたたび
 この号が出る頃は、保木(元石川町6500番台)の桃畑も満開を迎えていることだろう。その桃畑を見渡せる手前の坂道を下った先が「尾作谷戸(おざく・やと)」だ。

 『地名推理ファイル・元石川編』で紹介したが、八年前のことなので、新しい情報も含め、改めて検証してみることにする。

 場所は、あざみ野駅から通称『県道 号横浜生田線』のバス通りを尻手黒川道路(川崎市宮前区の稗原交差点)に向かい、途中、『覚永寺下』の信号(あざみ野駅からおよそ2q)を左折する。

 左折してすぐに早渕川の小さな橋を渡る。といっても、これを川であり、橋であると認識している人がどれだけいることか?ここから200メートル上流で子どもたちが水浴びをし、150メートル下流で野菜や農機具を洗ったという記憶は、コンクリートとフェンスの中に封印されてしまった。

 そのフェンスに沿った細い道が、かつての平川のメインストリートだ。バス通りの対岸にある平川神社の参道はここまで続いていた。尾作谷戸の入口もここになる。

 目印となる大きな石の燈籠のそばで「どんど焼き」など平川地区の人々が年中行事を行っていた。その燈籠は、大正時代に発行された『山内村名所絵はがき』で、「山内名所薩摩燈籠」として紹介されている。

「江戸時代末期、石川村から薩摩屋敷に女中奉公に上がっていた女性が、明治維新で宿下がりをする時に記念にもらい受けたものである」という言い伝えから『薩摩灯籠』と呼ばれる。

 元石川編では、郷土史家・横溝潔さんの『山内のあゆみ』の記述を転載しつつ、江戸時代の石川村が二代将軍の正室・崇源院(江姫)の化粧料で、のちに芝の増上寺の御霊屋(おたまや)領になったこと。その増上寺の隣に薩摩屋敷があり、薩摩島津家とコ川将軍家が深い縁戚関係で結ばれていることを紹介した。

 それを元に、石川村の娘が薩摩屋敷に奉公にあがったのには、増上寺が関わっているのではないか?という勝手な推理(由来が分からないのをいいことに…)を披露している。

 薩摩の江戸屋敷といっても、三田や渋谷にもある。掲載後、「渋谷が一番近いな」と思い直し、専門家に聞いてみたら、海と川を利用して船で運ぶから陸路の近さは関係ないとのこと。果たして、どの屋敷だったのか?

 その真相はともかく、三年前の大河ドラマ【篤姫】=天璋院と、今年の大河【江姫】=崇源院、二人の主人公の名前を八年前に並べて書いていることに、我ながら先見の明を感じた。

 270年続いた徳川幕府の礎を築いた江姫と、その幕府の最期を看取った篤姫。幕府の礎は家康が築いたのだが、たぶんドラマでは江姫が大きく関わってくるに違いない。「平和な世を望んだ(?)伯父、信長の意志を継いで欲しい…」とか、【天下布武】のお守りを取り出して、たぶん言うはずだ。
 

薩摩と筍
 三英傑(名古屋では信長・秀吉・家康をそう呼ぶ)をはじめ、戦国時代の主要人物とこれほど関わった女性もいないだろう。もし、彼女がいなければ、戦国の歴史は違うものになっていたに違いない。

 そう考えると、地元石川村が江姫の領地だったことの歴史的な意味は大きい。

「冬になると、領民は江姫からもらった着物を着て、ゴボウを掘り、将軍家に献上した」というエピソードを、昨年暮れに、満願寺で行った徳川家広氏の講演会で横溝潔さんがおっしゃっていた。

 同じ御霊屋領でも、石川村の満願寺にだけ将軍秀忠と江姫の位牌があるという謎も含め、何か外には出せない秘密が隠されているように感じられてならない。

 ついでに「薩摩」というキーワードが気になった。薩摩出身の【篤姫】のヒットがなければ江姫が主人公になることはなかったし、徳川家広氏の講演会も薩摩藩家老・調所広郷のご子孫、調所一郎氏がいなければ実現しなかった。単なる偶然には違いないが…。

 じつは、八年前に取材した時、もう一つ「薩摩」と関わりのある話を地元の方から聞いていた。尾作谷戸の最奥から二件目にお住まいの黒沼さんのお婆ちゃん。通称「とば(屋号)のおばさん」だ。昨年惜しくも亡くなられた。もっと話を聞いておけばよかったと後悔している。

「昔は、竹畑で二〇〇貫(約七五〇キロ)も筍が採れて、東京までリヤカーに積んで売りに行ったもんだ」と、おばさんは確かにそうおっしゃられた。

 その時は、ここから東京までの距離に驚き、深くは考えなかったが…、なるほど、青葉区や都筑区、川崎市域は筍の産地だ。

 筍といえば孟宗竹。 孟宗竹が日本に上陸したのは平安時代の初め。だが、それを全国に広めたのは薩摩藩だ。

 1736年(元文元年)、第二十一代藩主、吉貴公が、琉球(沖縄)に「孟宗竹」があるのを聞きつけて取り寄せた株が繁殖し、「株分け」して江戸品川の薩摩藩邸に植えられ、それが日本全土に広まったと云う。(琉球産というのは嘘で、中国江南から密輸入したとも言われる)

 筍と灯籠が関連しているとは思えないが、薩摩の影響が石川村の歴史に何らかの影響を残したのは確かだろう。

 灯籠の先の角を右に曲がる。突き当たり岩崎家の竹林の中に「筆子塚」がある。

 筆子とは、寺子屋に通う子どもたちのことだ。この谷戸で幕末から明治にかけて、岩崎太左衛門という人が寺子屋を開いていた。家に入った泥棒を諭し、餅をあげて帰したというエピソードが残るなど、とても温厚な人物で、俳句をたしなんだそうだ(俳号・里柏)。

 その太左衛門先生の遺徳を偲んで教え子たちが筆子塚を建てたのである。 


つづく

 


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