■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2011年5月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 青葉区編 Vol.2

 戦争が終わったことを知らず、二十八年間たった一人でグァム島に暮らし、「恥ずかしながら帰って参りました」の名言と共に日本に帰還した横井庄一さん。横井さんは、グァムで生活している間、ほとんど地名を使わなかったそうだ。

 それは何故か?

 単純に「必要としなかった」からである。

 地名とは、場所の特徴を仲間や家族、もしくは第三者に伝え、共有するために作られた符牒だという。ならば、伝える相手のいない横井さんが、地名を使う必要はまったく無いのである。

地名という符牒
 語源辞典を使って地名を調べていると、必ずといっていいほど登場するのが「崩壊」と「侵食」の文字。つまり、地名の多くがハザードエリア(危険地域)を示しているということだ。

 国土のほとんどが山林で、且つ雨が多い。それに加えて、たびたび起きる地震。列島に住んでいた人々は、安心して住める場所を探すのに苦労したに違いない。そして一旦、居を構えたら、住居の周りの危険区域は常に把握して、仲間内で共有しておく必要もあった。

「あそこは地盤が弱く、崩れやすいから近づくなよ」 と説明しなくても

「○○だ!」と言えば済むような符牒は、こうして生まれたのだ…と想像する。

 震災後、某週刊誌が「大震災に強い町」という特集をやっていた。幸いなことに青葉区や港北ニュータウンは「強い町」に選ばれていた。洪積台地で地盤が安定しているというのが、その理由だそうだ。

 そんな記事を見るまでもなく、縄文、弥生といった古代の住居跡が区内各地に散在することが何よりの証明になる。ただし、地盤が強いのはあくまでも丘陵部分。谷戸や沼、田んぼを埋め立てた土地は当然脆い。 

 先の地震で、某ショッピングセンターの壁が崩落したのは、埋立地の液状化現象が原因だとも言われている。

 また、丘陵の高台だから安心だと思っていたら、じつは盛土だったということもあるから、不動産関係者の言う事をそのまんま鵜呑みにするのも気をつけたほうがよい。

 快適性や利便性ばかりを重視する傾向にあるが、不動産は高価な買い物、後悔しないためにも、伝承や歴史と共に、先人たちが知恵をしぼった地名(小名や字名)という遺産も十分に検証してみる必要があるようだ。

 震災後、青葉区周辺の地盤に対する問合せが数件あったので紙面を割いてみた。

 では、『尾作(おざく)』という符牒(地名)はどうなのか?こちらも、ついでといってはなんだが調べてみた。

 「作」には、「裂(さ)く」や「サクル(えぐる)」または「狭く細い行きづまりの谷」の意味があるらしい…と、書いたのは八年前のこと。「裂く」については、栃木県鹿沼市の山岳信仰で有名な石裂山(おざく山)を例に出して説明した。

 改めて検証すると、尾作地名には他にも以下のような意味があった。

 窪んで長く平らかな所(上総の方言)、谷(千葉、奄美方言)、山間地(福島県海浜地方の方言)、種を蒔くための畑の溝(群馬県佐波郡方言)、サクル(抉る、くり抜く。決壊する)(作=耕す) サクシ(土壌などの崩れやすい脆い状態)の語幹を取って名付けられた。

 因みに、「語幹」とは、用言の活用語尾を取り除いた変化しない部分。「歩く」「速(早)い」の「ある」「はや」である。語幹が地名に使われる例は多い。崩壊地形を例に出すと、「崩す」のクズで(葛、樟、九頭)など。(芳賀、羽賀、萩)は「剥がす」の語幹部分でハガ、ハギとなる。

渡来銭の謎
「雨が降ると水が出る谷」(神奈川県津久井郡)という説もあったが、これなどは、湧水の多いこの辺りの地形に即しているし、地域的にも近い。それから、柵(さく)で古代の城柵、中世の城砦の意味だとする説。

 八年前は、尾作谷戸が荏子田から王禅寺方面に続いていて、谷戸の中に堀切という屋号の家がある事と、その途中の「すすき野」付近に城山(じょうやま)と呼ばれる山があったことなどから城砦説を探ってみたのだが、肝心の城山の場所が確定できず断念した。

 尾作谷戸から「渡来銭が大量に発見された」という話を聞いたのは、その数年後のことである。

 場所は、燈籠から尾作谷戸に入り、突き当たりを左に曲がって、荏子田に向かう坂を上った途中。昭和四十七年に、この辺りで行った水道工事の際に発見されたそうだ。

 渡来銭は、中国などとの貿易を通じて流入してきた貨幣。なかでも、室町時代に日本へ大量に輸入され、江戸時代初めまで流通していた永楽銭(永楽通宝)は質が良く、安土桃山時代には流通貨幣の基準となった。

 貨幣経済を重要視した織田信長が旗印に用いたのは、そのためだろう。

 出土した渡来銭は、この永楽銭(134枚)を含めて35種類、総計で742枚。15世紀末から16世紀にかけて埋納されたと思われる。(横溝潔さんの都筑閑話『元石川出土の渡来銭について』より)

 しかし、誰が何のために埋めたのかは定かではない。在地有力者か土豪か?備蓄のためか副葬銭としてなのか?戦国時代に埋められたとするなら、城との関係は考えられないだろうか?再び城砦説が頭をもたげてきた。城山の場所、もう一度トライしてみる必要がありそうだ。

製糸場の位置
 黒沼製糸場のことを失念していた。城山の場所よりも、こちらの方が先だ。先々週の筆子塚から、さらに細い路地を30メートルほど進むと、左手に畑が現れる。

「俺たちの子供の頃までは、畑の中にコンクリートで出来た建物の基礎が残っていたよ」と教えてくれたのは畑の持ち主、『虚ス川庭園』の黒沼光一さん。以前からの知り合いで、お酒や落語など、普段から親しくお付き合いさせて頂いている。

 明治時代、この地で製糸場を操業されていた黒沼平兵衛さん、じつは黒沼さんのご先祖だったのである

 

つづく

 


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