| ■ひろたりあん通信バックナンバー |
| ▼2011年6月号 |
| 地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」 |
■絹の道を往く 青葉区編 Vol.3![]() 黒沼製糸場は、家内副業的な規模で営まれたそうだ。聞くところによると、それでも女工さんは五十名ほどいたという。五十名といえば大した規模だ。 田園都市線が開通して、『たまプラーザ』というモダンな駅が誕生する以前は、青葉区東部(かつての山内村)は、早渕川の流域を中心に生活が営まれていた。 川に沿って走るメインストリートの旧道は、平川地区の鎮守・平川神社の参道と薩摩灯籠の建っている地点、つまり尾作谷戸の入り口で交わる。 祭りの日に村芝居が催され、正月には(どんど焼き)が行われていた。そこは、平川の上(かみ)の人たちが年中行事を行う集会場であり、中心地だったのだ。 製糸場は、そこからわずか100メートルしか離れていない。市街化調整区域である現在の尾作谷戸しか知らない我々(新しい住民)の感覚では、不思議な気がするが、かつての平川を知る人たちからすれば、違和感は覚えないのだろう。
平川人気質 横溝潔さんの著書『山内のあゆみ』には、平川地区の人びとについて、このように書かれている。 たとえば、明治期の自由民権運動に尽くした金子馬之助。その弟で郡会議員、山内村村長を務め、村の発展に尽力した金子萬助が生まれた農村地帯には珍しい政治的風土。 たとえば、青葉区一ともいわれる平川神社拝殿の見事な彫り物。 そして、たった一晩の祭りのために、地区総がかりで一週間かけて本格的な舞台を作りあげたという先述の村芝居。 それらが平川気質の現れとして紹介されている。 因みに、金子兄弟は筆子塚のところでふれた寺子屋の師匠、岩崎太左衛門の筆子(教え子)で、馬之助は福沢諭吉とも親交があったという。 平川神社の彫り物は、麻生区王禅寺にある琴平神社の彫り物と配置や彫り方が似ているそうだが、松・鳥・花・獅子・龍、そして一対の鷲と大小合わせて十九枚と数に優っていて、石川村の他の村社と比較しても、その規模は飛び抜けている。 そういった気質は現在の平川の人たちの中にも綿々と受け継がれているように感じる。自分自身も同じ気性だからだろうか、平川地区には親しい友人知人がじつに多い。 八年前の『美しが丘編』で、平川の地名推理に協力していただいた金子勇さんもその一人だ。 周囲を気にしない地声の大きさ、その風貌、男気、度胸…、武士政権樹立の原動力となった古代関東の豪族『武蔵七党』の末裔に違いないという認識は今も変わっていない。その勇さんの元を久々に訪ねた。 安藤製糸 「勇さん、安藤製糸ってわかります?」 「お、安藤製糸…製糸場だろ。知ってるよぉ」 相変わらず大きな声だ。 平川の集落には、もう一つ製糸場があった。、明治二〇年頃、安藤五郎左ェ門という大地主が「きかいば」と呼ばれる製糸工場を平川に作った。
その敷地は、乾燥室、貯蔵室、工場、蚕室、土蔵、そして母屋を入れて、およそ二〇〇〇坪だったという。この五郎左ェ門も平川気質の一人として『山内のあゆみ』で紹介されている。 「ジイサンから聞いた話で、実際に見たわけじゃないけど、女工さんも一杯いて、母屋は茅葺き屋根の、そりゃあ、でっかい屋敷だったってよ」 最盛期には、150名近い女工さんがいたそうだ。 「その場所を知りたいんだけど」 「ほら、平原橋の…『いのさん』とこを曲がった…。ほらぁ!行ってみたほうが早ぇえよ。行ってみんべ」 ということで、製糸場のあったという場所に案内してもらった。 場所は、薩摩灯籠のある覚永寺の信号から早渕川を300mほど下った川の対岸。 あざみ野からだと平原橋の交差点を過ぎた一つ目の角、「いの」という居酒屋を右に曲がって50mほどいった辺りだ。
勇さんが道路の真ん中に立って説明する。 「ここら辺りにコンクリートの基礎があって、子どもだったから、ピョーンピョーンと、飛び乗って遊んだもんだよ(笑)」 (コンクリートの基礎!)黒沼製糸場と同じだ。少なくとも50年前までは基礎が残っていたのだ。 「今、元小(元石川小学校)が建っている、あの辺りからきれいな小川がここまでチョロチョロっと流れていてさぁ」と言いながら上を見上げる。 今、角を曲がって来た道は、その先階段になっていて、小学校はその階段の上に建っている。きれいな水は、製糸には欠かせない。 「あとは、うちのジイサンに聞いたほうが早ぇえな」 先程から勇さんが口にするジイサンとは、お祖父さんではなくて、父親の武次郎さんのことだ。 金子武次郎さん、大正10年生まれで御年90歳。卒寿を迎えて、なお矍鑠(かくしゃく)とされている。今でも、保木の畑(桃畑の向い)まで通っているというから驚きだ。しかも、自転車をこいでというから恐れ入る。
つづく
歴史探偵・高丸の思いつくままの漫筆、雑筆 |