■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2011年7月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 青葉区編 Vol.4

 安藤製糸場のあった場所から平川神社の裏手に向かって歩く。

 緩やかな坂道だが、100mほど行ったところから坂の傾斜がだんだんきつくなってくる。砂利道だった昔は車もすべって上れないほどの急な坂だったという。

 地元では「うま坂」と呼ばれている。そう、かの有名な「うま坂」である。(上の写真は昭和40年代の「うま坂」、下は現在)


どんな坂?馬坂

 有名だといっても、知っているのは、平川地区に生まれ育った地元の方と、この地名推理ファイルの愛読者、もしくは私の講演会等にご参加くださり、尚かつ、途中居眠りもせず最後まで辛抱強く聞いてくださった奇特な皆さん…という極めて限られた人々の間でのこと。

 ここで、その限られた皆さんに陳謝しなければならない事実が判明した。うま坂については、これまで「馬も上ることも出来ないような、急傾斜の坂」だと説明し、あちこちで喋ってきた。ところが、調べてみると、どうも違うらしいのだ。

「馬坂」という地名は全国各地にある。有名なところでは、福島と栃木の県境、福井県敦賀市、そして岐阜県にある『馬坂峠』。

 茨城県常陸太田市には、佐竹氏が築いた『馬坂城』という城があるし、奈良県には『馬坂陵(うまさかのみささぎ)』という天皇陵まである。

 面白いところでは、横須賀の馬骨坂。長崎には馬落し坂や力馬坂、馬ん糞坂なんて〜のまで、数え上げたらキリがない。

 そんなに遠くへ足を延ばさなくても、すぐ近く、田園都市線沿線の二子玉川と溝の口にも「馬坂」がある。

 二子玉川の馬坂は、玉川高島屋の裏手にある商店街を抜けた、瀬田四丁目と岡本一丁目の町境にある。

 明治から昭和初期にかけて政財界人の別邸が数多く建てられたという閑静な住宅街で、衆議院議員を歴任した小坂順造氏の別宅で、世田谷区の有形文化財に指定されている旧小坂家住宅(瀬田四丁目広場)の東側を通っている道がそうだ。

坂の途中の小さな石碑に「馬坂」と刻まれている。

 路線バスがこの坂を上り下りするくらいだから、傾斜も距離もそれほどではない。瀟洒な邸宅の合間には緑も豊富に残っていて、坂を上っていても気持ちがいい。この坂を上りきった左手には、俳優の仲代達矢さんが主宰する無名塾の劇場がある。

 

 溝の口の馬坂は、「うまさか」ではなく「まさか」と読む。駅の南口を出てバスロータリーと信号を渡ったら、左手「洗足学園」方面に向かって200mほど歩くと『久本薬医門公園』がある。「まさか」は、その公園の裏にある。

 ちなみに、『久本薬医門公園』は、江戸時代から医家として続いた旧家、岡家の屋敷跡である。

 地図入りの大きな説明板には、「明治22(1889)年、町村制公布により近隣八ヶ村が合併し、橘樹郡高津村が誕生した。その初代村長に選任されたのが医師・岡重孝氏(六世)である。」と書かれている。

「岡…、重…孝。…あっ!岡先生だ!」

 その名前を見てピンと来た。じつは、私のもうひとつの連載『夢の吹く丘』2010年11月号でご紹介させていただいた日本画家・岡信孝氏のご実家なのである。

 薬医門とは、門の脇に木戸を付け、四六時中患者が出入りできるようにした構造の門のこと。

 明治43年に完成したといわれるこの門は、「七世・信一氏が馬で往診に出かける際に、乗馬したまま門を通れるように造ったと伝えられる…」と、写真入りの説明板にもあった。

 

 その薬医門の前を通って、細い路地を抜けると「馬坂」はあった。梶が谷に抜ける道の一つである。

入口に「庚申塔」が立っている。その庚申塔の右手の小さな坂は、「うさぎ坂」というらしい。

 坂の途中には「馬坂」という表示板のほかに「道路勾配二六%」という標識まであった。  45度の傾斜で100%だから、計算すると約15度の角度になる。

 といっても、その角度のツラさは歩いてみなければ分からない。

 自動車で上ると、スタートした直後のジェットコースターのような感覚。あの、ゴッゴッゴッと上っていく時に似たG(重力)が身体にかかる。

 地元の人しか知らない美しが丘四丁目の「うま坂」と違い、この二つの坂は知名度が高い。特に溝の口の急勾配は、坂マニアの間(どんなマニアだ?)でも、とくに有名な坂なんだとか。

 

 それで、問題なのが、名前の由来である。前者が「人は上がり下り出来たが、馬では無理だったので、新たに馬でも往還できる道を作った」。

 後者は「ぬかるみがひどく、馬の力を借りなければ上れなかったから」という。他の馬坂も調べてみたが、ほとんどが「馬を通らせるために作った」坂であった。 往診に出かける岡先生(もちろん、お医者さんの…)が、馬にまたがって馬坂を上って行く姿が頭をよぎった。

 まさかの大逆転。たしかに、馬が上れないのに「馬の坂」っていうのも不自然だ。金子勇さんに言うと…。

「へぇ〜、そうかよ。そうかもしんねぇなぁ」という答えが帰ってきた。

「昔は(こえひき)に行くときの近道として使っていたからよぉ」

「こえひき…?ああ、肥引きね」

「そうだよ。親父の頃は、肥桶を木車(大八車)に何個も積んで、清水台から溝の口を抜けて、二子玉川の先の…とどろき!等々力までもらいに行ったもんだよ」

「等々力!そんな遠くへ…」

「(どの村はどこの町へという)縄張りみたいなものがあったみたいだぜぇ」

 確か、谷本や鉄村の人たちは、横浜の六角橋まで肥を買いに行っていたはずだ。それにしても、昔の人の馬力(脚力)には驚かされる。

 たぶん、平川のうま坂もかつては馬が物を運ぶための道だったのだろう。牛坂や兎坂など、動物の名の付いた坂道は数多くあるが、馬の坂が群を抜いている。動物供養塔である馬頭観音の存在も含め、馬が人々の生活、そして人間の歴史において欠くことのできない大きな存在だったのだということを改めて認識させられた。

養蚕と炭焼き
 馬坂の途中にある勇さんの本家、金子武次郎さん宅を訪ねた(最初の写真右手の家)。笑顔で出迎えてくださった武次郎さん。ピンと伸びた背筋は、とても九〇歳とは思えない。

「安藤製糸っていうのはね。五郎左ェ門っていう人がやり手だったらしくてね。工女を百人以上使ってそれは大きくやってたんですよ」

 応接間のソファに腰をおろすと、すぐに質問の答えが帰ってきた。

「なにしろ住まいときたら、草葺の屋根の大きな屋敷でね。ちょっと無かっただろうね、この辺じゃあんなに大きな家は。ただね。私は大正十年の生まれだから、明治大正年間の工場が全盛だった頃のことは分からないんですよ」

 武次郎さんが生まれた年に、安藤五郎左ェ門さんは亡くなっている。安藤製糸が操業を停止したのは、その七〜八年前。明治末期に全盛を迎えていた安藤製糸のことをご存じないのはあたりまえだ。

「ただね、うちの家ではお蚕(かいこ)さんをやってましてね。それはいい現金収入でしたよ」

「お蚕さん」とは、もちろん養蚕のことだ。

「蚕の卵を買ってくるんですよ。市が尾の水野さんて言ったかな?そこから卵を買ってきて、小さいうちから育てて、繭にして売ったんですよ」

 昭和の初め、平川地区だけでも五〜六軒の家が養蚕をされていたそうだ。

「片倉製糸ってね。横浜線のどこだんべな?山の方から先生が来たんですよ」

 耳を疑った。まさか、片倉の名前が出るとは思わなかった。

「その片倉製糸の先生が来て、この辺の繭をやっているおうちを回って(育て方を)指導してたんですよ」

 片倉製糸が八王子の川口村に栽桑研究所(試験場)を建てて、桑の品種や土壌、肥料などの研究を行ったことは以前書いた。もしかすると、そこから指導者が関東各地の農家を回っていたということか…。
 

つづく




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