■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2011年11月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 青葉区編 Vol.8

 平川の金子武次郎さんのお話が、まだ途中であった。

都筑郡の養蚕
「うちのお袋は上手で。年に三回やりましたよ。春と初秋、晩秋とね。だいたい一ヶ月で繭を作っちゃうんですね。結構、いいお金になったんだよ。まとまった現金収入ですごく良かった」

 蚕は一年に三回繭を作る。「春繭」、「夏繭」、そして秋に作られる「秋繭」だ。(農家によっては、四回、五回のところもある)中でも春繭の糸は飼育環境が良いため質がよく超高級品として扱われた。

「上等の繭は売って、クズ繭も売ってましたね。それまで売れたんだよ」

 このクズ繭が真綿となる。

「畑っていえば、みんな桑を植えていた。桑の芽が出てきてから、桑を伐って枝ごと持ってきて、台所で葉っぱだけとって、蚕に食べさせた。繭になる間際は親指ほど太くなるんですよ」

 戦前はこの辺りも桑畑が多かったのだろう。

「母親は、昭和六年の九月に亡くなったんですけど、亡くなる前まで、毎年やっていましたよ。母親が亡くなってからは、姉がね、引き継いでやってました。どれくらいまでやっていたかなぁ?昭和二桁までやってたかどうか?」

 昭和五年の都筑郡の養蚕農家の戸数は約2500軒である。翌年から徐々に減りはじめ、昭和十二年には2100軒。  八年後に横浜市に編入になった際の市全体の養蚕農家数は、約3700軒。戦況が悪化するにつれ、どんどん減っていき、昭和二〇年終戦の年には、横浜市全体でたったの75軒となっている。

 昭和四(1929)年の世界大恐慌による繭価の大暴落、そして戦争による食糧不足が原因だろう。昭和二桁になると、養蚕どころではなくなり、蚕のための畑は人が生きていくための畑に戻った。

 せっかくなので、昭和十年の都筑郡内の農家の状況を調べてみた。

 当時、都筑郡全体の農家数は5831軒。そのうち養蚕農家が2038軒となっている。つまり養蚕農家率は三六%、三軒に一軒となる。

 次に村ごとの数字を見てみる。金子さんの家のある山内村は農家数493軒で養蚕農家が47軒。約一割と意外と少ない。

 製糸場が二軒もあるから養蚕も盛んだったのかというと、それは関係ないようだ。

 同じ青葉区内の中里村はどうか?農家数706軒のうち養蚕農家435軒で約六割。田奈村にいたっては農家数545軒で養蚕農家479軒、なんと九割近い。ほとんどの農家で養蚕をやっていたことになる。

 田奈村の数字は都筑郡内でもダントツに多い。

 ちなみに、県内で多いのは境川流域の高座郡。全体でも六割を超えている。以前、歌手の菅原都々子さんにインタビューした時、一面の桑畑の中を桑の実を味見しながら歩いていたら、口の中が真っ赤になったと笑っておられた。

 昭和三六年頃の相模原町(高座郡大野村あたり)の話だ。境川流域はその頃まで養蚕農家があったのだろう。

桑畑と水害
 特集記事でもふれたが、田奈村は恩田・長津田の「田」と奈良の「奈」が合わさってできた村である。田奈というと青葉区内だと思ってしまうが、長津田も入っているのである。

 長津田といえば、大山街道を歩いた渡辺崋山の【游相日記】を思い出す。

「八王子ハ織リヲ専(もっぱら)トシ、長蔦、鶴間ハ養蚕ヲ専トス。」

 八王子は織物業が主体で、長蔦(長津田)は、養蚕業が主体だと言っている。長津田も含めた田奈地区の養蚕は、幕末から盛んだったということが分かる。

 それには地形が関係している。山の傾斜地や河川敷。特に河川敷に桑は植えられる。なぜなら、桑の樹は、生命力の強い樹木だからだ。一度根付くとどんどん成長し、深く広く根を張る。氾濫の多かった昔の河川敷に桑を植えることは治水の役目もしていたのである。

「河川敷に桑を植えなさい」と、幕末〜明治時代の養蚕家・鯨井勘衛(かんえ)という人が提唱した。治水だけでなく、水害の時に運ばれる新しい土砂が桑の葉に害虫を寄せ付けないという効用もあったらしい。

 恩田川もやはり暴れ川であった。

  『あおば紙芝居一座』のオリジナル紙芝居に「水神姫」というお話がある。大雨によって恩田川が氾濫し田畑が水没、困った農民のために、自ら荒れ狂う濁流に飛び込んで、命と引き換えに水害から村を守ったお姫様の話だ。

 恩田に古くから伝わる『内方姫伝説』を元にした話で、内方姫の碑も恩田城趾と推定される場所の近くに残っている。姫が飛び込んだという場所まで伝えられているので、まったく根も葉もない話ではないようだ。 

  恩田は「田の恩」、現在、田奈駅のホームから広大な田園風景が望めるが、川の氾濫によって土砂が堆積し、肥沃な土地が生まれたと思うと納得する。

 鶴見川の水害についても、大山街道編で書いた。田奈村の次に養蚕農家率が高い柿生村と岡上村。どちらも鶴見川の流域ということは、やはり同じ理由が当てはまる。

                                        

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 養蚕を専トスル長津田だからこそ、「絹の道」のメインルート、つまり横浜線の駅があるのだと思っていたら、そうではないらしい。調べてみたら、面白い事実が分かった。そして、市ヶ尾で見つけた石碑の意味とは…。次回、トラベルミステリー「まぼろしの横浜線ルート」をお楽しみに!(西村京太郎か!)

つづく


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