■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2011年12月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 青葉区編 Vol.9

絹の道メインルート
「JRの横浜線は、かつてシルクロード(絹の道)であった」と、生糸貿易に関する大方の資料に書かれている。

 生糸が集積される八王子から、横浜の港まで生糸を運んだ(絹の道)は一本だけではない。

 ここでいうシルクロードは、中でも鑓水商人(八王子市鑓水の生糸仲買商)たちが頻繁に利用した、いわばメインのルートのことだ。

 ある資料には「横浜線の路線と重なる」と書かれている。「路線と重なる」…などと書かれると、あたかも「絹の道」のルート上に線路が敷かれ、そのまんま横浜線になったかのような印象を受ける。 鉄道の線路というものは、出来るかぎり直線で、出来るかぎり緩やかなカーブを描いて敷設される。

地形に合わせて造成するしかなかった、江戸時代以前の曲がりくねった旧道が重なりあうはずがないではないか。

 頭の中で理解していても、正確なルートが分かっていなければ、重なり合わないまでも、近接したコースを辿ると想像をするのが普通である。

(国道二四六号線)と(大山街道)の関係がまさにそうであった。つかず離れず、時に重なり、時に回りこみ、少なくとも、荏田から長津田までは、寄り添うようにルートが重なっていた。

 ところがだ、(絹の道)のルートを調べてみて驚いた。「つかず離れず」どころか、絹の道と横浜線のラインが交わるポイントは、片倉駅と、町田と成瀬の中間点のたった二箇所しかない。  

 橋本から町田までは(町田街道)を通って横浜線と並行するものの、町田から先は長津田に向かわず、そのまま南下。今度は(八王子街道)を鶴ヶ峰、西谷、上星川と向かい、横浜線からずんずん離れて行く。

 最終的には、野毛の町を横切って、関内に到着するのだが、地図全体を俯瞰し、広い視野と大きな心で見ても、「絹の道=横浜線」と、呼ぶには抵抗感がある。

悲願の鉄道建設
 横浜線の八王子〜東神奈川間が開通したのは明治41(1908)年の九月。日露戦争終結のちょうど三年後にあたる。三十年代には、日本列島の主要な幹線鉄道網は、ほとんど完成していたということなので、開港以来、もっとも重要な輸出品(生糸)を運ぶための鉄道建設にしては、遅すぎである。

 生糸貿易商の原善三郎(横浜編で登場。三渓園を造った原富太郎の義父である)らが、鉄道建設の申請を鉄道院に出したのは明治19(1886)年。この最初の申請は、「武蔵鉄道」という名称で、八王子から川崎を結び、横浜と東京の双方へ通す計画であった。しかし、同時期に申請が出された『甲武鉄道』(のちの中央本線)と競合して敗れ、却下されてしまう。(甲武鉄道は、三年後に八王子〜新宿間が開通)

 明治27(1894)年。今度は、八王子と横浜が直結する「横濱鉄道」の申請が、再び原善三郎らによって出された。しかし、それも却下。その後も毎年のように出願するが、いずれも却下。却下の理由は明治政府の中央集権体制維持、ようするに東京と直結するルート以外の路線を、すぐ隣の横浜に設けることに難色を示したことが理由だと言われている。

 似たようなことが幕末にもあった。江戸幕府が万延元年(1860)に発令した『五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)』だ。江戸幕府が(生糸、雑穀、水油、蝋、呉服)の五品目について、必ず江戸の問屋を経由するようにと命じた法令だ。

 この時は、江戸問屋の保護と物価高騰の抑制が目的だったのだが、すぐに列強各国から「自由貿易を妨げる」という、強い反発を受けた。この時、(絹の道)に別ルート(抜け道)が出来たといわれている。
幻の横浜線ルート

 明治35(1902)年、原善三郎はすでに亡くなっていたが、八王子、相模原、町田、横浜などの地元有力者が出資者に加わり、政府がいつでも買収できるという厳しい条件付きではあったが…、「横濱鉄道」にやっと仮免許が下された。

 着工は、明治39(1906)年。東海道本線上に新たに『東神奈川駅』(当時は京浜駅)を新設して、私営「横濱鉄道」は完成した。八王子と東神奈川駅間に九駅、総延長は、42.6qである。一日七往復で片道の所要時間は1時間39分だったという。(現在は、1時間弱)

 さて、先月号の最後にふれた「幻の横浜線ルート」である。当初の敷設計画は、現在の横浜線ルートとは大幅に違っていた。

「あ、分かった。長津田から鶴ヶ峰〜西谷〜関内という、本来の絹の道ルートがそうだな」と思われたアナタ!

 さすが、前フリをちゃんと読んでますね〜。でも、ブーッ!違います。

 東神奈川から小机までは合っている。じつは、小机まできた線路は長津田ではなく、当時都筑郡の中心地で役場などが置かれていた「川和」に向かう予定だったのである。

 川和から市ヶ尾、柿生、鶴川と谷本川(鶴見川)沿いに北上し、八王子に向かうルート、ようするに『日野往還』、現在の横浜上麻生線こそが当初の路線計画で、その方が距離的にも近く、都合がよかったのだ。

 思えば、前回の『大山街道編』、同行した津屋さんが青葉区役所脇の道(上麻生線の旧道)で、「絹の道ですか…気になりますねぇ」とつぶやいたのが『絹の道編』を書く発端であった。この事実を偶然見つけたとはいえ、不思議な縁を感じる。
 

 『日野往還ルート』は何故実現しなかったのか?次回「鉄道忌避伝説」をお楽しみに!「お〜い、市が尾の石碑はどうした?」あ、忘れてた。それも次回必ず…陳謝。
 

つづく


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