■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2012年2月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(市ヶ尾) Vol.1

 明息をきらせながら、カラオケ店の角を曲がり、その奥の階段に向かう。

「いない。よかった〜」

 出掛けに急のお客さんがあって、約束の時間ギリギリになってしまった。が、どうやら先に着いたようだ。ホッとしながら階段に足をかけると、階段の中腹にある謝恩碑の裏から「ヒョイ」と人影が現れた。

「あっ、あれ?…、すいません。遅くなってしまって…」

 やはり津屋さんだ。(そうだよな〜)几帳面な津屋さんが待ち合わせに遅れるわけがない。

 『大山街道編』の荏田から長津田を一緒に歩いて以来だから二年半ぶりの再会となる。いよいよ『絹の道』を歩くというので、再び連絡をとり合ってこの日を迎えた。

 そもそも、『絹の道』を調べることになったのは、津屋さんのひと言。大山道と日野往還(上麻生線)が交わる上市ヶ尾の交差点付近でつぶやいた

「絹の道はいったいどこに続いているんですか?」であった。

養蚕指導者
「確かにこれじゃあ、なんの石碑だか分かりませんね」と津屋さん。

 謝恩碑のことだ。『謝恩』と書いてあるものの、薄汚れていて、何に対する感謝なのか、ぱっと見ただけでは分からない。

「最初、逆さまに読んで、誰かの罪が赦されたのかと思いましたよ」

「なるほど、恩赦…ですね」

 恥ずかしながら、篆書体の「謝」の字が読めなかったのだ。

「それは、何の碑ですか?」

 石碑の前で話をしていると、通りかかった男性から声をかけられた。以前から気になっていたのだろう。

「養蚕を指導された方の謝恩の石碑です」と答えると。

「ようさん…?そ、そうですか」

 要領を得ない様子で立ち去っていったが、「ようさん」が蚕を育てる養蚕だと理解してくれただろうか?

「平三郎水野先生は、愛知縣丹羽郡大口村の人、明治四年を以て生る。資性皎潔熱誠旦覇気に富み、壮時遠大の志を懐(いだ)きて武州都筑郡中里村に居を移し、明治四十年、武蔵蠶業金城社を創立して、此地育蠶団体の嚆矢を成す…」

 簡単に言えば、愛知県出身の水野平三郎という人が、中里村に移り住んで、『武蔵蚕業金城社』を創立し、この地域の養蚕指導に多大な貢献をした…と書かれている。

「愛知県丹羽郡といえば、小牧と犬山の間、確か戦国武将の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)が出た土地ですね」

「ほぉ、よく知ってますね」

「名古屋出身ですから」

 大口町の北に隣接する扶桑町(ふそうちょう)は、明治の頃に「桑によって扶養される町」ということでその名が付けられた。名古屋市のベッドタウンとなった現在でも、少数だが養蚕が行われている。

『中里郷土史』には、「功績を永く後世に伝えんと、関係者二八六名が故人の報恩と共に面影を追憶する熱意によるものである」と書かれてある。関係者とは、養蚕の指導を受けた農家の人たちのことだ。

「裏に、その名前が書かれていますよ」と津屋さん。

 石碑の裏に回ると、びっしりと人の名前が書かれていた。

「なるほど、すごい数だ。え〜、市ヶ尾、上谷本、下谷本村、鐵、寺家、成合、鴨志田、田奈村奈良、恩田…」

 馴染みの地名、よく知っている苗字が並ぶ。村の名前が併記されているので、養蚕農家の分布が分かる。

「長津田、王禅寺、下麻生、上麻生、岡上、古澤、早野、片平、五力田…」これは、川崎市域だ。といっても、この頃は同じ都筑郡である。

「上三輪、能ヶ谷、野津田、金井、広袴」は町田市。

「平尾、廣袴」は稲城市と多摩郡にまで広がっている。

「やはり、田奈や恩田の恩田川流域は(人数が)ダントツに多いですね」

 生活圏が違うからだろうか、石川村や荏田村は入っていない。

上原出羽守
「そろそろ出発しますか」

 津屋さんがショルダーバッグを担ぎなおす。

「ちょっと待ってもらっていいですか?その前に朝光寺に寄りたいんですけど」

「いいですが、何かあるんですか?」

「市ヶ尾を治めていた上原出羽守のお墓があるんですよ」

「ほ、上原出羽守…?ですか」

「ええ、市ヶ尾を治めていた戦国時代の武将です」

 天文16年に出された小田原・北条氏康の書状が残っていて、そこに『都筑郡市郷の地を安堵する』と書かれている。

「市ヶ尾が市郷と書かれたという文書とは、それですね」

 境内に寺の由来が書かれた碑があった。

「開基は、上原賀解由左ェ門朝光公となっていますね。亡くなったのが天文17年11月だから、所領を安堵された翌年ですか。だとすると、出羽守は、この朝光公ということになりますね」

 法名を『朝光寺殿法山道念大居士』と諡号されたので、この法名にちなんで寺の名前が付けられたとある。

 苔むした宝篋印塔という情報を頼りに探してみると、墓地の奥にそれらしい墓があった。思ったよりも小さい。

 上原氏は北条が滅びたあとも生き残り、徳川時代には、村の名主となって続いたという。

 

つづく


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