■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2012年11月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(市ヶ尾)Vol.10

 バス停「水道局青葉事務所前」の脇に、稲荷前古墳見学者用の小さな駐車場がある。保存されている三基の古墳へは、この駐車場からと、反対側の住宅街(大場町やよいが丘)からの二ヶ所から上っていける。

 古墳自体は単なる丘、見るべきものはないが、その上からの眺めは壮観だ。

 西に大山がそびえ、その向こうには丹沢の山々。その背後から、日本一の富士山が遠慮がちに頭をのぞかせる。眼下を流れる鶴見川は大場川、黒須田川に合わさって南北に流れ、東西には武蔵と相模の大地がパノラマのごとく雄大に横たわっている。



 有史以前からの景色。もしかすると、「大場」という地名は、この広大な大地を望むことのできる、この(場所)を意味するのではなかろうか。

三輪の形
 目の前の鶴見川を上流に向かえば、たったの3qで三輪の町に至る。徒歩でも30分とかからない。

 『新編武蔵風土記稿』には、「三輪村は、家数102軒。東は麻生村、東南は寺家村、南は奈良村、西は岡上村に接し、村の境界は多く都筑郡に囲まれている。
ただ北方でわずかに郡中の能ヶ谷村につづいている」と、記されている。
 
「三輪と奈良町は隣り合っていたんですねぇ。たしか、奈良村も大和から移り住んだ人々が故郷の地形に似ているからと付けられた名前ではなかったですか?」

「そうなんですよ。町田市、川崎市、横浜市と、それぞれの行政区に分かれているから関連性がないようにみえますが、じつは同じ大和からの移住者たちが住んだ土地なんですね」

 地図で町田市の形を確認すると、三輪の町(三輪町と三輪緑山)だけが不自然な形で町田市にくっついている。例えるなら、枝からぶら下がるブドウだろうか。

 小田急線の柿生と鶴川の間にヘタの部分(距離わずか200m)があり、そこから麻生区を押し広げるように房の部分が膨れあがる(こちらは、広いところで1600m)。そして、南に向かうに従って徐々に細くなり、先端部分は「こどもの国」の敷地に突き刺さっている。



「どうして、三輪だけが飛び地のように不自然な形で多摩郡になったのか?それが不思議なんです」

「確かに不自然ですねぇ。いずれにしろ、その三輪からの移住者たちが六号墳に関わったと高丸さんは推理するわけですね」

「とんでもない。、自分はただ、大和の箸墓古墳と、町田市三輪の地名に共通する符号を見つけただけです。それに、その六号墳には、ヒトが埋葬された形跡も埋納品もないので、年代がはっきりしないんですよ」

「作りかけの古墳…ということですか?それも不思議ですねぇ」

「もっとも、稲荷前古墳自体、築造者も被葬者も、『どこの誰だ』っていう答えは出てないんですけどね」

「関東はいろいろな土地から、いろいろな技術者の集団が移住して開拓された土地ですからね」

「いろいろな技術といえば、蚕を育てる技術や機を織る技術もそうですね」

「もちろんです。あとは稲作…農業ですか。それから馬を育てる技術に家を建てる技術…ですね」

「鉄を作る技術。これを忘れちゃいけません。一番重要ですから」

「ほぉ、一番は製鉄ですか?」

「鉄で出来た大工道具がなければ家だって建てられませんし、稲作文化が広まったのだって、鋤や鍬といった鉄製の農機具のおかげです。馬具だって鉄製ですよ。鉄がなければ生活そのものが成り立たないんです」

「確かにそうですねぇ」

「武士もそうです。刀や槍、それに鉄砲。領地に鉄資源や製鉄のプラントを持っていて、武器を自前で大量に生産できる者が天下取りに名乗りをあげる。ところが、こういう重要な部分を学校でまったく教えない。そもそも鉄はですね…」

「まぁまぁ、鉄の話はそのくらいにして、下に降りませんか」

黒須田川の水
 古墳群の丘を降り、絹の道(日野往還)に戻る。

「黒須田川ですね。確か、源流は王禅寺じゃありませんでしたか?」

 河戸橋を渡る途中、津屋さんが上流を振り返りながら尋ねる。

「そうです。ゴミ焼却場(王禅寺処理センター)のところです。ちなみに、早渕川の源流もその近くで、距離的には100mほどしか離れていません」

「そんなに近いんですか?」

「分水嶺ですね。黒須田川は、ここで鶴見川に合流しますが、早渕川は、遠く綱島まで流れて合流します」

「あまり綺麗な川じゃありませんね」

「昔は水量も豊富で綺麗だったそうです。生きものも沢山いて、石川村の人たちが地元の早渕川ではなく、わざわざ黒須田川まで魚を釣りに行ったほどですから」

 黒須田川を渡ると、大場町から鉄町に住所が変わる。鉄と書いて「くろがね」と読ませる地名は珍しい。

 信号のところにコンビニがある。以前は『イノウエフード』というスーパーだったために、現在でも地元では「イノウエ」で通っている。

 大正十五年から営業されていて、当初は農具や地下足袋などを販売していたそうだ。

「津屋さん、黒須田川に魚がたくさんいたということは、鉄が豊富だったということですよ」

「な、なんですか?突然…」

 




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