■ひろたりあん通信バックナンバー
2013年3月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(鉄 町)Vol.4
 
私はかつてK縣T郡のNといふ村に住んだことがある。考へると、全く妙な心持がする。あんな片田舎へ、一たい何のつもりで、住まうなどと思ひ立つたものであるか、今日になつて見れば少々物好きすぎたと思ふ。けれどもその時には、私は本気にその村で一生を送るつもりだつたのだ。(中略)私はその時の自分の生活の状態を「病める薔薇(そうび)」(或いは「田園の憂鬱」)といふ作品のなかで書いた。

 佐藤春夫が鉄(くろがね)に移り住んだ二年後の大正七年、『田園の憂鬱』の二ヶ月後に発表された『お絹とその兄弟』の書き出しである。 この作品は、『田園の憂鬱』の後日談、佐藤夫妻の世話をした「お絹」という女性を主人公にした物語、いわばスピンオフ作品だ。

 冒頭のK縣T郡のNという村は、まごうことなき神奈川県都筑郡中里村。

 世界から忘れられ、文明からは押し流された、T(東京)とY(横浜)とH(八王子)との真ん中に、しょんぼりと置かれていた土地の名前が、この作品で明らかになる。

 そんな土地に何のつもりで住もうと思い立ったか…?

 複雑な人間関係と都会での生活からの逃避。平凡な田舎への憧れ――郷土史関係の本にはそう書かれている。

 25歳の若き文学青年にありがちな青春の苦悩。いらだち。『田園の憂鬱』だけを読めば、確かにそう思ってしまってもしかたない。だが、真相はそんな純粋なものではなかった。

 45年後の昭和三十八年に、佐藤自身が書いた自伝『詩文半生記』で彼自身が告白している。

 実家からの仕送りも使い果たし、質草も底をついた。そんな窮乏の果てに考えたのは土地の転売。

 東京近郊の安い土地を買い、その土地の登記価格の約三倍で売って利益を得ようと企てたのだ。

 昭和二十三年に出した随筆集『青春期の自画像』にも同様のことが書かれている。内容に若干の食い違いがあるが、簡単に言えば、肉親を利用して裕福な実家から金を引き出すための企みだったのである。

 呆れた…というより、「なるほど」と納得した。『田園の憂鬱』の主人公(佐藤春夫自身)の病的で自己中心的な言動が不快でたまらず、読み進むのが憂鬱だった理由は、作者の人格にあったのだ。

 だが、この愚かな企てのお陰で、彼は文学者としての地位を築くことが出来たし、郷土史を研究する我々は、大正時代の中里村を知る貴重な資料を得るという結果につながった。コレを利用しない手はない。

乗合馬車と竹の下
 『お絹とその兄弟』は、中里村の回想から始まる。その冒頭からの2ページに、当時の村の様子を知る興味深い記述がいくつかある。

 
そこは以前、鉄道の枕木を産出した地方としてそのみちの人には知られて居た。

 枕木は主に、クリ、ヒバ、ヒノキなど、耐朽性に優れた樹木が利用される。中里村がその産地だったとは初耳だ。

 「その道」の人に有名だとあるが、「その道」が鉄道関係者なのか?材木商なのか?定かではない。

 
そのN村(中里村)は、神奈川と八王子とを行き来する汽車の道からは、一里以上もそれて居た。その汽車を一度乗りそこなふと、無駄に三時間も待つて居なければならなかつた。

 汽車の道とは横浜線だ。この頃はまだ、鉄道院が営業していたので 「院線」と呼ばれていた。鉄から中山駅までの距離がほぼ一里だ。

 
そんな場合を考へると、この汽車は寧(むし)ろ不便なものであつた。村の人々は圓太郎(えんたろう)馬車で神奈川へ行くか、それでなければ歩くのである。

 圓太郎とは、落語家の四代目橘家圓太郎のことである。明治十年代、彼が寄席で高座に上がる際に、出囃子の替わりに乗合馬車の御者(ぎょしゃ)が吹く真鍮のラッパをテトーテトーと吹いて入場したことがお客さんに大ウケ、「ラッパの圓太郎」の愛称で呼ばれるようになった。

 それが、乗合馬車自体の名前にもなったのだから、当時の落語人気のすさまじさが分かる。圓太郎の名前は、その後に登場した乗合バスにも継承された。

 
その馬車の立て場までだつて、私の住んだあたりからは一里近くの道である。

 当時の乗合馬車は、六人乗りのホロ馬車だったそうだ。その乗合馬車の発着所のことを「立て場」という。一里近く離れた立て場とは、おそらく郡役所のあった川和であろう。

 しかし、先ほどの『詩文半生記』には、中里村の土地を検分する際に、東神奈川から目的の土地「竹の下」を終点とする乗合馬車を利用したと記している。川和まで行かなくても、市ヶ尾の竹の下まで馬車は来ていたのだ。竹の下の描写もある。

 
柿生の方へ出る八王子街道(?)と、大山街道と呼ばれる二子の渡しの方から来た道とが交叉して十字路になる地点で、道の南側にはやや大きな古びた茶店が一軒、その前が馬車の終点で…。

 大きな古びた茶屋は旅籠だった綿屋さん。十字路はまさに中里銀座だ。
(?)付きだが、日野往還を八王子街道と呼んでいるところをみると、やはり、絹の道は東神奈川から八王子まで続いていたのである。

 
東は細い山径が通っている。北方は伐り残した松の林で、松はまだ大きな門松ぐらいな若さである。その松林とこちらの地境あたりに清らかな泉があるのもうれしい。西側の大山街道に沿っては鍛冶屋だの、自転車屋などが軒をつらねて、呼べば答えるばかりだから淋しくもない。

 この土地を佐藤は一目で気に入ったという。45年後の回想なので、どこまで正確かは分からないが、松林と泉の場所は検証してみる価値がありそうだ。

 『お絹とその兄弟』にも市ヶ尾は登場する。

 
私は初めN村のうちの字Iといふところに、お寺の一室を借りて居た。しかし、三月ほど後に、同じ村のうちの字Kといふところで、一軒の家を借りることになつた。KはIよりも、もう半里以上も上(かみ)であつた。

 字I (市ヶ尾)というところの寺。竹の下の土地を購入したということで、最初は「地蔵堂」のことかと思ったが、佐藤春夫とその妻(女優・川路歌子)、そして2匹の犬と、2匹の猫が暮らすには、地蔵堂の建物ではあまりにも狭すぎる。

 よくよく調べてみると、市ヶ尾字鶴蒔の寺…あの上原出羽守が開いた『朝光寺』であった。「えべす屋の賢ちゃん」こと内野賢治という市ヶ尾村の顔役の斡旋で朝光寺の本堂脇の一室を賄い付きで借りていたのである。

字Kはもちろん、字鉄(くろがね)だ。
                                                                                                                                      高丸





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