■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2013年4月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(鉄 町)Vol.5
 「あの丘ですね。佐藤春夫が、美しいと絶賛したのは…」

 田園の憂鬱の碑を背にして津屋さんが尋ねる。視線は目の前の浜なし畑と鶴見川の更に先、そこには、みたけ台の丘が横たわっている。

「佐藤春夫の住居から見えるとしたら、あの丘でしょうね」



陸の孤島
 
その丘はどこか女の脇腹に似て居た。のんびりとした感情を持つてうねつてゐる優雅な、思ひ思ひの方向へ走つてゐる無数の曲線が、せり上がつて、せり持ちになつて出来上がつた一つの立体系であつた。

 2ページ以上にわたる描写は、『田園の憂鬱』の中で唯一ホッとする箇所でもある。

 
その景色は美しくも、少しの無理も無く、その上にせせつこましく無しに纏つて居た。それはどこかに古代希臘(ギリシャ)の彫刻にあると謂はれてゐる沈静な、而も活き活きとした美をゆつたりと湛へて居た。

 柿の木台からみたけ台、そして上谷本町へと続く丘である。みたけ台公園や杉山神社、麓にある『こどもの杜』の周辺にわずかに緑は残るが、造成工事で丘の形もずいぶんと変わってしまっているはずだ。当時はどれほど美しい姿だったのか、叶うものなら見てみたいものだ。

「詩人なんですね。彼は…」と、そのまま丘を眺めながら津屋さんがぼそりとつぶやく。

「さんま、さんま、さんま苦いか 塩つぱいか…」詩人という言葉に反応して、思わず口をついて出た。

「そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや…。宮澤さん、佐藤春夫の『秋刀魚の歌』ですね」

「彼のふる里、和歌山県の新宮の名産に『さんまの丸干し』があるんです。これが美味しくて、以前はよく取り寄せていたんですよ。焼いてもいいんですけど、素揚げにすると丸ごと食べられる。それを食べるたびに思い出すんですよね。この詩を」

「新宮といえば、ご飯を高菜の漬物で巻いた『めはり寿司』も美味しいですね」

「そうそう、あれも美味しい。いいところですよ、新宮は。でも小さな街です。大阪から電車で四時間、名古屋からでも三時間半かかる。まさに陸の孤島です。なのに大正時代は、この辺りの土地よりも地価が三倍も高かった」

http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/konitan/sanma.htm

http://kumano.main.jp/sanma-marubosi.html



「熊野大社のお膝元というのもあるんじゃないですか」

「それもあります。あと熊野から伐りだした材木の集積地として賑わったという歴史もあります。新宮に行った時に、土地の人たちと一緒に酒を飲んだんですけど、自分たちの郷土に誇りを持っているのが、ひしひしと伝わってきました」
「ほぉ、そうですか」

「世界からは忘れられ、文明からは押し流され、しょんぼりと置かれて居る…なんて、陸の孤島の出身者に言われたくない。田園の憂鬱を読んだときには腹が立ったんですけど、それは現在(いま)の感覚だったんですね」

「それはそうですが、タイトルに憂鬱を付ける必要があったんでしょうかねぇ?」

「タイトルだけじゃないですよ。隣の家の鶏を自分の飼い犬が食い殺した時も、犬を放し飼いにして注意された時も、逆恨みしたり、逆ギレしたり…、じっさいにあった話かどうかは分かりませんが、村の人とはトラブル続きで、あまり良くは書いていません」

「よく怒りませんでしたね」

「読んでないんじゃないですか。田園の憂鬱は新宮に帰ってからの執筆ですし、現代と違って本屋もありませんから」

「花崖(かがい)さんはどうですか?同じ時期にすぐ近くに住んでいた同業者です。『田園の憂鬱』は読んでいるでしょう」

「もちろん読んだでしょうね。そして、たぶん…怒ったと思いますよ。竹の下の土地を買いに来たことも知っていたでしょうから」

「ああ、すぐ隣の土地ですからね」

「『田園』の中に…あ、廣田花崖の『田園』の方ですけど、その中に『公開状』という作品があります。田舎に移り住んだにも関わらず、野良仕事もしないで日がな一日、琴や三味線を鳴らしている―奥さん―という人物に宛てた手紙の形式をとった作品です」

「ええ、知ってます。えっ、あれは佐藤春夫の奥さんですか?」

「いえ、そうは書いていませんが…」

公開状の相手
 
あなたはあなたの前の耕地で農夫や農女が如何なる汗を流すかに注意なさったことがありますか?

 米一粒の生産にも如何なる労苦が払わるるかをお気付きになったことがありますか?

 その米を働かないあなた方が常食として而も米質の良否などを口やかましく諄々していらっしゃる間に、農夫農女が何を食っているかに一考をお費やしになったことがありますか?

 あなた方は又あなた方の周囲の人々が、あなた方が着る絹を生産するために精神肉体の両方面に如何なる苦辛を経験するかを注意なさったことがありますか?

 (略)土に食込む重い鍬の音と歓楽の粋のような琴三味線の音と、成程珍奇な対照ではありませんか?あなたのその享楽の音が田舎の平和を掻き乱さぬと思いですか? 


「公開状が執筆されたのは『田園の憂鬱』が発表されたまさに翌年。あなた方…と、あるから、奥さんだけに宛てただけではないはずです」

 ちなみに、奥さん―女優の川路歌子―とは、中里村を去った翌年に別れている。

「文章からは、相当な憤りが感じられますね。もしかすると、『田園』というタイトルにも『憂鬱』に対する抗議の気持ちが入っていたかもしれませんね」

 かもしれない…いや、たぶんそうだろう。佐藤春夫がこの土地に住んだ理由を知ってから、それは確信となった。『田園』という二文字には、郷土に対する愛情と誇り、貶められたことに対する公憤が込められているに違いない。

 手前味噌のようだが、門弟三千人といわれる国民的文豪よりも、知名度は低いが高潔な精神と人間に対する優しさを持った創業者を誇りに思う。



※大正十四年に発表された『田園』は、当時の小学校で文部省認定の副教科書として使われている。





アクセスカウンター
旅ともアクセサリーアニメDVD通販フラワーアイズ
 

■前に戻る■