■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2013年7月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(鉄 町)Vol.8
 
終戦の年――昭和20年1月15日の朝、千葉から九州へむかう旧日本海軍の四発輸送機がエンジントラブルを起こし、鉄町(当時は横浜市港北区)に墜落した。

 場所は、県道12号の鉄町交差点付近(鉄町七六六)。鶴見川のすぐ脇で、現在、浜なしの畑や直売所、クロネコヤマトの営業所のほか、数件の住宅が建っている。

 旧鉄小学校(くろがね青少年野外活動センター)の正門から100mほどしか離れていない。 

「死傷者は…?どうだったんですか?」と津屋さん。

「搭乗員を含め、十三人が亡くなったそうです」

 どうすることも出来なかったのだろう。広大な田畑が広がり、すぐ近くには鶴見川が流れていたにも関わらず、民家に落ちた。

「三堀庫之助さんという人の家に落ちて、住宅は全焼。良子という名の十八歳の娘さんが巻き込まれて亡くなっています」

「それは、痛ましい。あと七ヶ月で終戦でしたのに…」

「前年の暮れからB29による本土空襲(無差別爆撃)が激しくなって、全国の主要都市が狙われはじめましたけど、まさか、味方の飛行機が落ちてくるとは、夢にも思わなかったでしょうね」 

 ちなみに、四発輸送機とは、左右の主翼に二基ずつ計四基のエンジンを搭載した飛行機のことだ。海軍の輸送機ということなら、『川西航空機』が製造した、九七式輸送飛行艇、もしくは二式輸送飛行艇「晴空」のいずれかではないかと思われる。

 図書館で、当時の新聞の縮刷版を調べてみたが、「敵機を撃墜」「艦船数十隻を撃沈」「敵兵一千以上を殺傷」といった勇ましい見出しの中に、この事故に関する記事は見つけられなかった。

上が九七式輸送飛行艇、もしくは二式輸送飛行艇「晴空」

不思議な直線
「軍用機の墜落で民間人に犠牲者が出たというと、昭和五二年の米軍機墜落事件のことを考えてしまいますね」

「ああ、荏田の事件ですね」

 昭和52年(1977)9月27日13時20分、厚木基地から太平洋上の航空母艦・ミッドウェイに向かおうとした(RF‐4B ファントム偵察機)が、エンジン火災を起こし、荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落した。

「一般市民九名が巻き込まれ、そのうち、お母さんとお子さん(三歳と一歳の兄弟)の三人が亡くなりました。鉄町の事故と違うのは、乗っていた二名のアメリカ兵は、機外に緊急脱出して無事だったということです。事故の原因も米軍によって隠蔽されました」

「そういえば宮澤さん、『青葉のあゆみ』に書いていましたね」

 『青葉のあゆみ』は、青葉区制一五周年を記念して造られた郷土史の冊子である。米軍機墜落事件に関しては『青葉区の空』と題したコラムで書かせていただいた。

「資料を読むたびに泣けて…、恥ずかしい話、あのコラムは怒りと悲しみにまかせて書いたようなもんです。そうそう、その時に鉄町の事故も知って、何の気なしに調べてみたんですよ」

「え、何をですか?」

「事故現場です。地図に印を付けていて気づいたんですけど、鉄町の事故現場と米軍機の墜落現場の距離は、直線でたった2qしか離れていないんですよ」 
 
「たった2q。それは、近いですねぇ」

「しかも、驚いたことに、真っすぐ東に2q。つまり、緯度がほとんど同じなんです。不思議じゃないですか?」

「確かに、飛行機はそうたびたび落っこちるわけじゃないですからね」

「でしょう!もしかすると、目に見えない力が働いたのかもしれないですね。人智を超えた恐るべき力が…」

「・・・・・・。 さて、そろそろ下に戻りましょうか」

 かつての小学校の校庭(くろがね青少年野外活動センターのグラウンド)を横切って管理棟へ向かう。

「鉄町の事故を知っている人たちは驚いたでしょうね」

「えっ、目に見えない力にですか?」

「いえいえ、そうじゃなくて、戦時中とはいえ、事故からたった三十二年しか経っていないのに、また飛行機が落ちたわけですから」

「あ、それなら、鉄町の事故の19年後、昭和39年に町田駅前の商店街にやはり米軍機が落ちています。とにかく、米軍機の墜落事故や部品の落下事故は神奈川県下だけでも四〇回以上起きているんです」

「えっ、そんなにですか?」

「沖縄の基地やオスプレイの問題も神奈川県民にとっては人ごとじゃないんですよ」 

最初のロケ地
「そうだ、『青葉のあゆみ』といえば(青葉区の誕生から今日まで)という項目の中で、映画やドラマのロケ地について書いているんですけど…」

「ああ、ありましたね。たしか、青葉区がロケーションに使われた理由などが書かれていました」

「昭和40年代の土地開発が始まった頃にドラマのロケが行われるようになったとして、『泣いてたまるか』や『隠密剣士』などの話を紹介しました。でも実際は、戦時中にも映画のロケは行われていたんですよ」

「ほぉ、戦時中に映画のロケがあったんですか」

「田園の憂鬱碑を建てられた金子美代子さんが、『鉄小学校百年史』という本の中で手記を書かれているんですが…、あ、ちなみに金子美代子さんは、女学校を卒業されたあと、谷本小学校と鉄小学校で先生をされています」

 手記には先生をされている頃の思い出として、関東大震災や戦時中の出来事が記されている。

「映画のタイトルは『九段の母』。映画のロケには、鉄町の子供たちも頼まれて出演されたそうです」

 正式なタイトルは『雲月の九段の母』。

 いわゆる浪曲映画というもので、雲月は浪曲師・天中軒雲月(てんちゅうけん・うんげつ)のことである。

 ことである…といっても、浪曲映画がどういうものか、まったく知識がない。
                                                                                高丸

     
    

 ちなみに、中里地域十三ヶ村には、鉄学舎と合併した「寺家学舎」のほか、上谷本、下谷本、市ヶ尾、恩田成合(現在の青葉台)を学区とした「谷本学舎(谷本小学校の前身)」、西八朔、北八朔、十日市場の三村を学区とした「山下学舎(山下小学校の前身」)の四つの学舎があった。

校舎の変遷
「ただ、鉄小学校の場合、場所が四回移動しているんですよ」

 「鉄学舎」と、合併した「寺家学舎」は、どちらも元は寺子屋だったそうだ。「鉄学舎」の場所は、上麻生道路を中里学園入口交差点から150mほど市ヶ尾方面に戻った道路沿い。

 一方の寺家学舎は、寺家村入口付近にあった東円寺が利用されていたが、明治七年に鴨志田村の南慶院に移った。寺家の地名の由来ではないかと言われる東円寺は、大正一一年に王禅寺に合併され現在(いま)はない。

 明治九年、鉄学舎と寺家学舎を合併し、校舎を新築するように…との要請が神奈川県から有り、先述の「第九中学区、都筑郡第三六番小学鉄学校」が設立、中鉄村は「三ッ郷」と呼ばれる地に新校舎が建てられた。

「校舎の位置は、今、上がってきた階段の下…駐車場のところです」

「えっ、あの狭い土地ですか…?」

「ええ、その頃の写真が残っていますが、校舎といっても、茅葺き屋根の平屋です。日野往還(上麻生道路)に面していて、目の前に用水が流れていたそうです」

「じゃあ、佐藤春夫の住んでいた家のまさに並びですねぇ」

「ええ、100mほどしか離れていません。『鉄小学校百年誌』には、習字のあとの筆や硯を用水で洗ったことや、春にシジミを拾ったと書かれています」

 教室が三つに職員室が一つ、その建物とは別に校長の住宅が建っていた。校長住宅の建物は、成合村にあった観音堂を買い取ったものである。

 明治四十二年、義務教育が四年制から六年制になったため教室が不足、隣の村田家の蚕室を借りて教室に充てたが、それでも追いつかず、明治四十五年、後ろの山を削って整地が始まった。土木工事は、学区民が交替で鋤や鍬をかついで積極的に労働奉仕をしたという。

「昔の人がよく言う、『結(ゆ)い』というやつですね」

「道普請や屋根普請…昔の人たちは、助け合うことを当たり前のこととして、労力を惜しまなかったんです。お互い様の心ですね」

「高度成長がそうした相互扶助の精神を破壊してしまいました。一度壊れてしまったものを再生するのは難しいですからね」

「津屋さん、そうとも言えませんよ。例えば東北復興支援のボランティアさんたち。彼らと話していると、ああ、日本人もまだまだ捨てたもんじゃないな〜と、思いますもん」
「ほぉ!なるほど。新しい結いですな」

 二回目の新校舎は、「くろがね青少年野外活動センター」のスポーツ広場の北側に建っていた。
「大正元年に使用されたのに、大正天皇の喪中ということで、落成祝賀式が開かれたのは5年後、天皇陛下の御真影が下賜されて、それを納めるための奉安殿の落成式と一緒に行われたそうです」

 その奉安殿は、大正十二年の関東大震災で崩壊したという。

「そして、三回目の校舎が新築されたのは昭和十二年、場所はさらに高いあの場所です」と、北側を指差す。

 スポーツ広場から三、四メートルほど高くなっている土手の上、現在キャンプ広場として使われているその敷地に、三度目の校舎は建てられた。明治、大正、昭和…と、時代を経るとともに奥へ、奥へ、高い所へ、高い所へと移動していったのである。

松の木と空襲
「キャンプ広場の高台に松の木が三本ありますよね。あの松は、当時と同じ場所に立っているんですよ」
「ほぉ、それは素晴らしい」

「松といえば、太平洋戦争の末期にB29の夜襲があり、当時兵隊さんたちの宿舎として使われていた校舎に数十発の焼夷弾が落とされたそうです。兵隊さんたちが急いで処理したおかげで校舎が燃えることはなかったそうですが、近隣の住宅が数棟全焼しました」

「青葉区は空襲の被害がほとんど無かったと聞きましたが…」

「学校の裏山の松の根っこから油を取っていたことが敵に知られたから…だと、当時小学生だった地元の人に聞きました」

「松根油(しょうこんゆ)ですか。なるほど、航空ガソリンとして必要だったんですね」

「鎌が学用品だったそうですから、子どもたちも根っこ掘りをさせられていたんですね。あと、空襲ではないですけど、鶴見川のそばの一軒家に日本軍の輸送機が墜落した話も聞いています」
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