■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2013年8月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(鉄 町)Vol.9
 
読者の方からFAXを頂戴した。発信者は、大場町にお住まいの鈴木弘明さん。用件名の欄に「飛行機墜落の件」と書かれている。文章に目を通して驚いた。昭和20年1月15日に鉄町で起きた旧日本海軍機の墜落事故を実際に目撃されたという内容、その時の状況が丁寧に詳しく書かれていた。

 昭和52年の米軍機墜落事件の目撃者には何人もお会いしているが、戦前の…68年も前の事故を目撃された方からご連絡いただけるとは思ってもみなかった。もっと詳しくお話を伺いたいと、さっそく、ご自宅に伺った。

双発機の不時着
 その日、鉄町の部落会ということで、鈴木さんは鉄小学校の校舎二階に同級生たちと集まっていた。FAXに書かれた年齢から計算すると昭和20年当時、鈴木さんは10歳、小学五年生である。

 空襲が日毎に激しさを増していくその頃、子どもたちの登校は危険だということで、谷本や寺家など遠い地区の子どもたちは神社や寺などを分教場として使用し、かつての寺子屋のようにして授業を受けていた。

 つまり、その日は鉄小学校に近い地区の一年生から六年生までの子どもたちだけがいたことになる。その数、三十名ほど。そのうち、二階の窓から事故を目撃したのは、鈴木さんを含め五〜六名だったそうだ。

「ひょいと見た時に、祥泉院の山の向こうから飛行機が現れてね。谷本のお宮(杉山神社)の松の木すれすれに、学校に向かって飛んできたんですよ」

 祥泉院の山とは、旧鉄小学校(くろがね野外活動センター)の鶴見川を挟んだトイメン。佐藤春夫が「女の脇腹に似て居る」と表現した丘の向こうから航空機はやってきた。

「片方のプロペラ…向かって左側のプロペラが十字になっていたからエンジンが止まっていたんだね」

 片肺飛行で突っ込んでくる航空機。古い記憶ではあるが…恐怖を覚えながらの記憶はしっかりと目に焼きついている。

「四発でなく、双発だったと確信しています」

 そのことはFAXにも書かれていたのでインターネットで調べてみた。確かに、双発と四発では飛行機の全長、全幅、高さなど、その大きさは倍以上違う。搭乗できる乗組員の数から考えても、双発の輸送機に間違いない。

「いや、大変だ!と、思ったら、グッと高度を下げてね、クラチャンの家の庭にドスンっと着陸したんです」

 三堀庫之助さんは当時50歳、地元ではクラちゃんという愛称で呼ばれていた。墜落ではなく着陸と強調される鈴木さん。その証拠に、三堀さんの家の庭には大きな車輪の跡が二つ残されていたという。

 だが、着陸と同時に出火。その火は、茅葺き屋根の母屋に燃え移り、一人家にいた娘さんが犠牲になった。燃え上がる炎の熱風は校舎の二階にまで達したという。
「学校にいた兵隊さんたちが、すぐに飛んでいったけれども、助けられなかったね。火はバンバン燃えているし、機関砲が爆発して、弾がぴゅーん、ぴゅーんと飛んでくるから、そばには寄れなかったんですよ。ですから、僕らが現場を見たのは次の日じゃなかったかな」

「学校の石段のところで、兵隊さんたちが運ばれてくるのを見てました」

 民家を避ける余裕も、脱出する時間もなかったのだろう。

「幾日後だか忘れたけど、同じ双発の飛行機が飛んできてね。また落っこちるんじゃないかと右往左往していたら、後で聞いたら僚友機だったんですね。弔問というんですか、墜落した現場の上を三回旋回して戻っていきました」

鴨志田、そしてすすき野にも
「ほかにも落ちていますよ」

 耳を疑った。聞けば、鴨志田とすすき野にも日本軍の戦闘機が墜落したという。

「鶴見川の鴨志田橋のところ。あれは紫電改(しでんかい)じゃなかったかな…?川下側の鉄(くろがね)寄りの橋の欄干がずっと戦後も壊れたまま…新しい橋に架け替えるまで壊れていましたね」

 紫電改。子どもの頃、夢中で読んだ「紫電改のタカ」(ちばてつや作)という漫画を思い出した。ちなみに、紫電改を有する第三四三海軍航空隊は、エースパイロットを集めた精鋭部隊として、敗色濃厚な日本本土防空戦を終戦まで戦ったことで有名である。

        

「すすき野は、今の東急(ストア)の辺りかな。落っこちたっていうんで、子どもたちだけで鉄から桐蔭(学園)のある山を越えて見に行きましたよ。雪が積もっていたのを覚えています。こちらの飛行機は『飛燕(ひえん)』ですね。どちらも、パイロットはパラシュートで脱出しましたし、ケガ人も出ていません」

 飛燕は、三式戦闘機(さんしきせんとうき)の愛称だ。五年前、九州・知覧の特攻平和会館へ行った時に展示されている「飛燕」の実物を見た。最高速度590キロを発揮する名機だが、本土決戦では燃料の欠乏はなはだしく、遥か上空からB29を待ち受け、一撃必殺の攻撃を仕掛けるしか手はなかったという。

 その攻撃に失敗し、撃ち落とされた飛燕の残骸は、好奇心旺盛な子どもたちを別な意味でがっかりさせた。

「主翼が落ちていたんですけど、子ども四人くらいで持ち上がるくらい軽いんですね。布張りに銀粉塗ってるんじゃないか?って思いましたよ。あと、親指くらいの機関砲の弾を拾って、首にぶら下げたりしていましたね」

 わずか数キロの距離で、これだけの飛行機が落ちている。全国合わせるとどれだけの数にのぼるのだろう。しかし、こうした事実は、どこにも記録されていない。

 ついでというわけではないが、戦時中、鉄町でロケが行われたという映画「九段の母」についてもお尋ねした。

「九段の母ね。観ましたよ。鉄小学校の一、二年生の教室をぶち抜いてよく上映会をやっていたんですよ。二、三回観たかな?うちの兄貴なんかも出てましたよ」

                                                                                               つづく
                                             高丸

     

     

 
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