■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2013年9月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(鉄 町)Vol.10
 

九段の母のあらすじ
 
『九段の母』の内容と撮影時の様子が、『鉄小学校百年史』の中の感想集に描かれている。
 
終戦前には、応召軍人の送迎に忙しく、時には悲しい遺骨迎え、また葬儀へ子供たちも参列したものです。

「九段の母」という映画の一場面に鉄が映されたのもこのころでした。映画は次のような内容であったと思います。

『ある娘が母の反対を押し切って、母の意に添わない職場に働いておりました。母親の怒りは激しく、娘は勘当のような状態で家には帰れなかったのです。勤め先の店のラジオから発表された戦死者の中に自分の兄弟の名があったことに驚き、急いで家路に着きました。そこへ式に参列のために歩いてきた生徒に出合ったのです』

 その式に参列する生徒の役を、当時三。四年生であった村田武さん、志田操さん、農協に勤めておられる小宮さん、そして私の息子の勤(つとむ)などが頼まれたのです。

『母親はがんとして、帰ってきた娘を家の中には入れませんでした。娘はしかたなく、泣き泣き式場へ行き、人陰から別れを告げ帰ったのでした。それを見ていた先生が自転車で娘の後を追い、家につれもどし、村長らの骨折りで母に許され家に入ることができました。そして、はれて家内そろって靖国神社にお参りに行ったのでした』


 前々月号にも書いたが、この手記の執筆者は、『田園の憂鬱』の中で「村で唯一の女学生」として登場する金子美代子さんである。美代子さんは鉄小学校の卒業生でもあり、大正十二年から教員として勤務もされている。因みに、(息子の勤)とは、郷土史家の金子勤さんである。

 金子さんのご自宅にお邪魔してお話を伺った。

 鉄小学校の子供たちが出演したのは、井上商店(バス停「下鉄黒須田口」横のセブンイレブン)の辺りで兵隊さんに向かって日の丸の旗を振っているシーンと、鉄小学校の校庭でみんなが体操をしているシーンの二ヶ所だったそうだ。

浪曲映画
『九段の母』、正式にはタイトルの頭に「雲月の」と付く。浪曲師・天中軒雲月(てんちゅうけん うんげつ)のことだが、この名前は浪曲の名跡で、この映画の主演を勤めるのは二代目の天中軒雲月だということである。

 初代雲月は、12歳で天才少年浪曲師と呼ばれた原田定治。浪曲界の先駆者「桃中軒雲右衛門」に因んで天中軒雲月の名を拝命。老幼婦女子にも歌えるよう平易な節回しが大衆に受け、明治時代末には浪曲四天王と呼ばれるほどのスターだったらしい。俗に「雲月節」といい、以後の女流浪曲家のほとんどが、今日に至るまでみなこの雲月節だという。

 その跡を継いだのが「伊丹とめ」という女性。(右写真)

 彼女も6歳の時に藤原朝子の名で初舞台を踏んだ。天中軒雲月嬢の名を経て、昭和九年(1934)に二代目雲月を襲名した。老若男女の声を自在に使いこなす(七色の声)が人気を博し、「九段の母」や「瞼(まぶた)の母」などがヒット。映画にも数多く出演した。「九段の母」はその頃の映画である。

 昭和二十二年に伊丹秀子に改名、以後その芸名で活躍された。読者の皆さんも、こちらの名前ならご存知なのではなかろうか。

 ちなみに、三代目雲月は、伊丹秀子の次女で、後に歌手に転じた永田とよ子。四代目は初代雲月の弟子の立石弘。その内弟子が五代目を継ぎ、天中軒月子の名で現在名古屋の大須演芸場などで活躍されている。

 共演者は、花井蘭子、月田一郎、小杉義男…う〜ん、映画通を自認する私でも、さすがにこの時代の俳優さんは分からない。(あ、一人いた。大川平八郎…)デヴィッド・リーン監督の映画『戦場にかける橋』に軍人役で出演したヘンリー大川ではないか。

 幼少期にチャンバラ映画や怪獣映画ばかり観ていた自分には、『忠臣蔵』や『地球防衛軍』『怪獣総進撃』などが馴染み深い。

 原作者は浪曲作家の萩原四朗。こちらも馴染みがあった。「赤いハンカチ」「錆びたナイフ」など、石原裕次郎の数々のヒット曲を手掛けた作詞家である。

 こうして調べたことを羅列してみると、『九段の母』がどんどん魅力的な映画に思えてくる。更に調べていくと、監督の渡辺邦男の作品も観たことがある。

 美空ひばりの時代劇に竹脇無我の『姿三四郎』…観たと偉そうに言っても、当時小学生、もちろん映画館でなくテレビの映画番組だ。


渡辺監督については、こんなエピソードがあった。


 終戦後、戦意高揚映画に関わった製作者たちが、GHQから厳しい尋問を受けた際に、ほとんどの監督が「軍部に脅されて仕方なく撮った」と、言い訳する中、渡辺監督だけは「国を護るために撮ったんだ」と主張した。

 その時、尋問に当たっていた米軍将校は「この国に来て初めてサムライに会った」と握手を求めたそうだ。

 『九段の母』も、まさしく戦意高揚映画だったのだろう。

 海軍機の墜落を目撃された鈴木さんが戦後に何回も観賞されていることを思えば、GHQに没収はされることはなかったのだから、どこかにあるはずだ。

 出演されていた金子さんも映画が見つかったら鉄小学校で上映会を開いて、卒業生だけでなく、今の子どもたちにも観せてあげたいとおっしゃっていた。

 昔の鉄町、そして絹の道はどんな風景だったのか?映画に関する情報がありましたら、是非お寄せください。

←渡辺監督の戦争映画



移された寓居

 管理棟のある西側から野外活動センターを出る。出ると、上麻生道路から北へ向かうなだらかな坂道にぶつかる。

 ここは、かつて「神明谷戸」と呼ばれていた地区だ。坂が右へカーブする途中、介護老人施設『横浜あおばの里』の入口を過ぎたところに小さな祠と手洗い鉢があるが、その祠が神明様の宮だと言われている。

「元々は草葺きで、内宮と外宮とに分かれていたそうです。でも、昭和二〇年五月の戦災で焼けてしまいました」

「では、この祠は…?」と津屋さん。

「昭和三〇年に再建されたものだそうですよ」

 

 坂道を進むと、奥に茶道具専門店の『みつぼり』がある。その先は、桐蔭学園女子中等部に続く。

「なんだか雲行きが怪しくなってきましたね。急ぎましょう」

「確かに!」

 雨つぶが一つ顔に当たった。坂道を引き返し、急ぎ足で絹の道(上麻生道路)に戻った。

  「あ、津屋さん。ここ。この蔵のあるお宅です。ここに佐藤春夫の家があったんですよ」
「・・・」不思議そうな顔で振り返った津屋さんを無視して、私は急いで道路の反対側に渡った。                                                つづく
                                             高丸

     

     

 

 

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