■ひろたりあん通信バックナンバー
▼2013年10月号
地名推理ファイル歴史探偵 高丸の地名推理ファイル」
■絹の道を往く 探訪編(鉄 町)Vol.11

『くろがね青少年野外活動センター』の脇、神明谷戸から降りてきた道から上麻生道路(日野往還)をわたり、T字路の南側の土蔵のある一軒家の前に立つ。

「宮澤さん、ここに佐藤春夫の家があった…とは、どういう意味です?」

 桐蔭学園行きの路線バスと乗用車を一台やり過ごし、急いで上麻生道路を横断してきた津屋さんが、疑問を口にする。佐藤春夫が住んだ家は、中里学園交差点角の『田園の憂鬱碑』の場所にあったことは紛れもない事実である。

「田園の憂鬱碑のところとは別にもう一軒あったということですか?」

「違います、違います。昭和に入ってからですが、佐藤春夫が住んでいた家をこちらに移転させたんです」

「移転?あ、そういうことですか。びっくりしました」

「佐藤春夫が住んだ家は、村田家十四代目が、自分の屋敷の下に建てた離れの隠居所だったんですけど、その家をこちらの…、あ、こちらは坂田信二さんという方のお宅なんですが、坂田さんの先々代…つまり、信二さんのお祖父さんの成一さんという方が、佐藤春夫の住んでいた家をたいそう気に入って、買い取ってこちらに移されたんだそうです」

「もちろん、住まいとして…ですね」

「ええ、もちろん。母屋として使われていたそうです。その頃の写真が残っていますが、茅葺き屋根に、庭には一本の柿の木。鄙びた、とても雰囲気のある建物です。佐藤春夫がひと目で気に入ったというのもわかりますね」

「いい家のような予感がある」

「ええ私もそう思うの」 


 小説『田園の憂鬱』の冒頭、主人公(佐藤春夫自身)とその妻がこれから新しく住む草葺きの家を初めて見たときの呟きである。 

 
その草屋根を見つめながら歩いた。この家ならば、いつか遠い以前にでも、夢にであるか、幻にであるか、それとも疾走する汽車の窓からででもあったか、何かで一度見たことがあるようにも彼は思った。その草屋根を焦点としての視野は、実際、どこででも見出されそうな、平凡な田舎の横顔であった。しかも、それが却って今の彼の心をひきつけた。

「距離にすると、およそ200mですから、たぶん、曳き家(建物をそのままの状態で移動する建築工法)で移動させたんでしょうね」

「ああ、なるほど。現在も歴史的な建築物や貴重な文化財などを移動させる時に曳き家工法を使いますが、そういう意味で、昔ながらの日本家屋は便利ですね」

「ただ、目の前の用水をどうやって渡らせたのか?そこのところが知りたいですね」

「いつ頃まであったんですか?」

「家ですか?え〜と、たしか昭和48年の春まではあったそうですよ。『鉄小学校百年史』にそう書いてありました」

「四〇年前ですか〜。見てみたかったですねぇ」

浜ぶどうと居酒屋
「あ、そうそう。こちらの坂田さんは、『丸信商事』という不動産業をされているんですが、そのかたわら、この裏手で「ブドウ園」もされているんです。津屋さん、こちらです」

 上麻生道路を進み、二つ目のの角を左に入る。

「ブドウ園は、この路地の先の左側。いわゆる『浜ぶどう』なんですが、もぎたてを一粒口の中に放り込むと、ジュワッと口の中にブドウの味が広がるんです。これがもうたまらない。他のブドウなんて食べられませんよ。『浜なし』と一緒で市場には出ませんけどね」

「浜ぶどう…ですか?浜なしは知っていましたが…」

「浜なし、浜ぶどう、浜柿、浜りんご…、浜キウイフルーツもあったかな?いわゆる横浜ブランドです。ブドウと梨は、八月から九月が旬です。今年はぜひ食べてみてください」

 読者の皆様には、シーズンが終わってしまってからの情報で申し訳ありません。ちなみに、鉄町を歩いたのは冬、去年の1月の話ですので、誤解のなきよう。

 道路の左側には歩道がないので、ふたたび右側に渡って上麻生道路を歩く。雨がポツリポツリと落ちてきた。傘は一応持ってきているが、さすほどではない。

 桐蔭学園女子部入口のT字の交差点で信号待ち。右に入る道路が、『横浜総合病院』を通って、すすき野やあざみ野方面への抜け道となっているせいで、この交差点は朝のラッシュ時などよく渋滞している。そのため、市ヶ尾方面からの車は右折禁止になっているのだが、それも「十分に守られていない」らしい。

「津屋さん、この信号を右に入ってすぐのところに『しんたく』という名前の居酒屋があるんですよ」

「ほぉ、居酒屋…ですか」

「落ち着いた雰囲気の、なかなかいい店ですよ。店主は三堀さんといって、自分と同い年なんです。津屋さんも今度一緒にどうですか?いっぱい!」

「いいですねぇ。三堀さんということは地元の方ですね。じゃあ、『しんたく』というのは屋号ですか」

「そうです、そうです。屋号です。さすが津屋さん」

「新しく家を立てたという意味で新宅。新宅という屋号はよく聞きますねぇ」

ここでいう屋号とは、同一地域の中で同姓同名の混同を避けるために使われる称号のことだ。

「お店に筍の水煮缶が置いてあったんですけど、それが鉄町で採れた筍なんですよ。加工しているのは新潟県の業者ですけどね」
「ほ、鉄産の筍ですか…」
                                             高丸

     

     

 

 

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