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2012年1月号 青葉発!希望の町行き定期便 『Passion Aoba』 0泊2日被災地ボランティア同行記 |
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■絹の道を往く 青葉区編 Vol.10![]() 明治四十一(1908)年九月、東神奈川・小机・中山・長津田・原町田・淵野辺・橋本・相原・八王子。
以上、九つの駅を結ぶ海陸連絡線・横濱鉄道(現、横浜線)は開通した。
鉄道忌避伝説 次の新横浜から小机は、鶴見川と距離を保ちつつ並行して進むが、小机城址公園の南端で第三京浜道路のガードをくぐると、すぐに鶴見川に最接近する。 当初は、この地点(川向橋の辺り)で対岸に渡り、池辺(いこのべ)町、佐江戸を抜けて、川和に向かう計画であった。 当時、川和は『都田(つだ)村大字川和』と呼ばれていた。
『都田村』は、中里村や山内村と同様、明治二十二(1889)年の町村制施行により、川和、池辺、佐江戸、川向、大熊、折本、東方(ひがしかた)、本郷が合併して出来た村だ。 本来は「都筑村」となるはずだったが、他の地域も「都筑」の村名を希望していたため争いが起こり、丘陵地帯を都岡村(現在の旭区)、田園地帯を都田村とした。 新旧どちらの地域にも「都筑の中心」という自負があったのだろう。 元々の中心地だった青葉区が頓着しないのに比べると、この熱意には頭が下がる。
都筑郡の中心地だった川和(昭和6年) 川和は、郡役所のほか都筑警察署、川和郵便局などの官公署が置かれるなど、まさしく政治経済の中心地であった。その中心地・川和に鉄道が通る! この報せに、住民は大いに喜んだ…と思いきや、猛烈に「反対した」のだと地元の人に伺った。川和が横浜線のルートから外れたのはそのためだという。
言うまでもなく、当時の鉄道は「蒸気機関車」である。一般市民は「陸蒸気(おかじょうき)」と呼んだ。横濱鉄道が最初に導入したのも、3400形という陸蒸気である。当然、汽笛を鳴らし、煙と火の粉をまき散らして走る。 「あの大きな汽笛の音で、鶏が卵を産まなくなる」「火の粉が飛んできて、火事になる」 「疫病が流行る」「魚が逃げる」「お客さんが逃げる」など、当時は全国各地で反対運動が起こったという話が伝わっている。 じつは、こうした反対運動のほとんどが根も葉もない嘘、いわゆる都市伝説の類なのだ。 「住民が反対したため、鉄道の線路や駅が街の中心部から離れた場所に設置された」という話は現代でもよく耳にする。 だが、嘆願書が出されたとか、デモが起きたとかの記録はほとんど無い。 鉄道が通った町、通らなかった町のそれぞれの思惑が噂となり、それが郷土資料や、果ては教科書にまで記載され、どんどん話が広がっていったというのが真相らしい。 実際は、地勢的な理由、建設技術の未熟さ、機関車の能力不足などが理由で、住民が「我田引鉄」と誘致の声をあげても、要望に応えられないという逆パターンのケースが多かったそうだ。
川和は河輪で川勾なり。 「勾」は(曲がる)という意味だ。 当時、不覚にも、「川勾」を「川匂」と書いている。「かわわ」と打って変換した時に「川匂」となっていることに疑問を感じなかったのだ。 神奈川県は湘南の二宮町に「川匂(かわわ)」という地名があるため、優先順位でそう変換されてしまったのだが、その川匂の語源である相模国二宮「川勾神社」は、「勾」になっていた。 鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも、河匂の三郎、河匂の七郎という御家人の名前が出てくる。川和を本拠地とした豪族だと伝えられる彼らの苗字も、「匂」だ。 清廉で武士の鑑と称された畠山重忠に従っていたため、「勾がる」という意味を嫌ったのか? 「色の鮮やかさ、美しさ」「はなやかに栄える」という意味の「匂う」の文字に惹かれたのか…?さもなくば、単なる書き間違いだろう。 河輪や川勾という地名は、川が輪のように大きく勾(曲)がっている…という意味がある。 昭和初期の地図を見ると、確かに川和から市ヶ尾までの間はウネウネと幾重にも曲がりくねっている。
市ヶ尾の朝光寺辺りなど、山際にまで川が迫っていて、平坦な土地はわずかしかない。そこに線路を通すというのは至難の業。しかも、鶴見川は名うての暴れ川。橋の建設費用に加え、安全面でもリスクを伴うのは目に見えている。かくして、鉄道計画から川和ルートは外された。 外れてしまったが、川和が路線計画に選ばれていたという事実が意味するものは大きい。日野往還(これからは「鶴見川ルート」と呼ぶ)が、重要な「絹の道」の一つとして認知されていたという証拠に他ならない。 時を同じくして、先ほどの朝光寺の脇に養蚕に関する石碑があるという情報を、『丘のものがたりプロジェクト』代表の増山さんからいただいた。 散歩の途中で偶然見つけ、何だろう?と気になって、地元の方に聞いてまわり、その正体を突き止めたのだそうだ。
養蚕指導者謝恩の碑 刻まれた文字を目で追っていくと…なんと、碑文は廣田花崖の文ではないか。 さっそく写真に撮り、帰ってからひと文字、ひと文字書き写した。旧漢字、旧仮名遣いに苦労しながら書き終えた時、増山さんから「中里郷土史に石碑の記事を見つけた」という連絡が入った。
なんのことはない、郷土史には、碑文のすべてが掲載されていた…不覚。 つづく
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