■花崖記念
花崖記念文庫
代表作 随筆集 「田園」より vol.15
玄米パン

         一

 「来た来た!」と人摺れのした一面に無邪気なところのある彼は、その声を聞くと無性に喜ぶ。 世間は自動車の爆音である。蝉しぐれである。乗合馬車の警笛である。子供たちのさんざめきである。犬の声鶏の声である。

 その雑音の中を、往きは東の丘の上から、戻りは西の田圃べりから、午前と午後、一日に二度ずつ近頃きまって聞えて来る。
「代用ォォォ食はァ、」と落として、「玄米パアン!」と軽快に蹴とばす。
 かと思うと又、
「玄米ィィィィパンの、」と控えて「ホヤホヤァ!」と放す。
 少なくとも一日二三人は来る。そしてその人それぞれの調子が自転車に乗って、広い田舎の空気をゆるがせる。
 錆びのある芸人じみた声で、いかにもイナセな神田のアンちゃんと言ったような、軽快な感じを与える調子である。

         二

 それはここいらへ来る行商人としては稀に見る人気者である。
「代用ォ食はァ、玄米パアン!」
「玄米ィィィパンのホヤホヤァ」

 子供は勿論、大人までみんなその口真似をする、鼻の下へチョッピリ髯を持った彼でさえ、人のいない時にソーッとやってみる。大層な人気である。

 ところが玄米パンそのものは、その売声ほどには人気を集めていないらしい。勿論この初夏の頃、自転車の背後へ大きな箱をつけて、洋服姿にメガホンを持った男が、県道の十字街に玄米パンの存在を報告した時には、事故の少ない田舎がその好奇心を極度に挑発されて、一日二日は大層な売行で、かくいう彼自身もまた、その一個をムシャッてみた一人であったが、その後幾人の玄米パン屋が、東の丘の坂を降りて十字街から上へ行って、それから熱天の下を一日歩いて帰って来る時にも、矢張り大きな声で呼んでいるところをみると、日々その売高が非常な額に達するだろうとは想像されない。

 それは田舎にも刻々と、不景気が浸潤しつつあるためでもあろう。しかし一度聞いただけで直ぐ、田舎には少し不自然と感じられるのは、あの「代用食」という言葉である。誰に奨励されるまでもなく、麦を食い、粟を食い。馬鈴薯甘藷あらゆる世の所謂代用食を用い尽くしている田舎の耳には、都会の人の耳への如く、この玄米パンが代用食として響かぬのは余儀ないことだ。

         三

 いわんや、甘味を加えたる総ての加工品が、未だ以て殆ど贅沢品と観られるのが現代日本の田舎の実情であるに於いてをやである。

 再びいわんや、日に月に深刻なる不景気に襲われつつある田舎であるに於いてをやである。
 さはれ田舎は強い。春来入り込み来る諸種行商人の著しき増加は、それが直に都会生活の現状を物語るものでなくて何であろう。
 不景気、失職、生活難、それは目今の社会を覆う一つの有力なる空気である。そしてかかる時、平常地味で人目につかぬ土がそのほんとうの威力を見せる。

 多くの青春男女はその若き夢に駆られて、表面だけは花やかに見えるあの都会生活にあこがれるであろう。無産者の嫁の媒酌を頼まれた一人の男は、そういう場合に於けるお嫁の発見難をつくづくとこぼして、同時に農村に於ける都会熱の意外に根強いのに驚いていた。

 この時ここに、横浜職業紹介所を通じて安い労力を輸入した一人の友がある。今日中込んだら直ぐ明日話が纏まった。早いところが労力の逆輸入である。農村の都会熱と対照して、それは何という痛快なる皮肉だろう。

 静かに思え「玄米ィィィパンのホヤホヤァ!」
 それは耳に快よい単なる声楽ではなかった。土の威力を讃め称える歌であった。

※原文は旧漢字、旧仮名遣いです。一部漢字を仮名書きにしました。一部句点を追加しました。

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