■ひろたりあん通信旅行版
6月22日〜7月5日
    「ゴールデンプリンセスで行く地中海&エーゲ海クルーズ」前編
■痩せませんが…
 今回は久々の海外旅行です。約半年ぶりに催行するので、かなり大胆な企画を立てました。なんとワールドトラベラーの憧れの的、地中海とエーゲ海クルージングです。二週間かけて六ヶ国、計八箇所を周遊する、ヨーロッパの見所を満載にしたコースです。

 二年前のアメリカの同時多発テロを皮切りに、ここ最近物騒なことが次から次へと起こっています。戦争、紛争、テロ、伝染病…、長期的な不況を考えれば、悲鳴をあげない旅行会社はどこにもありません。わがひろたりあん旅倶楽部は、それらの不幸に加えて、イヤミな上司の存在という最大級の不運を抱えているのですから、私は毎日、痩せる思いで奮闘しなければならないわけです(痩せませんが…)。しかし嘆いていてもお客様が集まるわけではありませんので、開き直りともいえる心境で、無謀とも言える長期旅行を催行したわけです。「こんなご時世に、そんなヒマ人がいるわけないだろうっ。それとも自分の休息のために企画したのかっ?」確かに上司から逃げ出すことが、私の一番の休息ですが…。でも上司の予測に反して「ヒマ人(失礼)」は世に存在したのです。

 当日は成田空港から朝一番のルフトハンザドイツ航空で出発。フランクフルト経由で乗換時間を含め約十五時間後にスペインのバルセロナに到着。

■肉武装?
写真 「うわー、なんだこの暑さは」バルセロナ空港に到着した一行を出迎えてくれたのは、南国特有の灼熱の太陽と現地ガイドさんでした。「この時期スペインでは当たり前です。四十℃になる日も珍しくないですよ」繊細な体を大量の肉で武装している私にとって、暑さとの闘いになることは火を見るより明らかです。空港からバスで三十分足らずでバルセロナ港に到着。港に聳えたっているのが、今回乗船する「ゴールデンプリンセス」で、約十一万トンと旅倶楽部でおなじみの「飛鳥」でさえ三万トン足らず、それを数倍上回るスケールの大きさに皆さん口をあんぐり。

 この日はバルセロナ港に停泊。我々一行も長い飛行機の移動と明日の観光に備えてチェックイン後、早めに就寝しました。

■見習ってください?
 翌日、午後一時の出航の前にバルセロナ市内観光に出かけました。バルセロナで忘れてはならないのが、スペインが生んだ天才建築家のアントニオ・ガウディとサグラダ・ファミリア(聖家族教会)です。 写真 「桜田淳子さんの家族のことか?」こんな冗談?は無視するに限ります。キリスト教会が不遇だった十九世紀後半、ローマ法庁を全面的に支えたのがバルセロナの宗教書の書店主であるジュゼップ・マリア・ボカべーリャ。彼はイタリアはロレートのサグラダファミリア教会に感激し、バルセロナにもそんな人々が憩い、教養を高め、瞑想する場を建てたいと思い、一八八二年サグラダ・ファミリアを創立したのです。ただこの寺院は未だ工事が続けられていて、完成まであと百年とも二百年とも言われており、ただし「建築費が底をつかなかったら」という条件付きとのことです。信仰に裏打ちされた心の平安、気の長さを、短気なわが上司も見習って欲しいものです。

■そろそろ考えようかな
 じっくりとサグラダ・ファミリアを見学した後は一九九二年に開催されたバルセロナオリンピック会場、市内を一望できるモンジュイックの丘と周遊し、市内観光は終了。ゴールデンプリンセスに戻り、定刻どおりに出航しました。最終寄港地ベニスまでの約十四日間の船旅の始まりです。

 乗客は約二千七百人。その大半がアメリカ人で、イギリス人、カナダ人と続き、日本人はわがひろたりあん旅倶楽部一行だけでした。船内は約三十カ国の人々でにぎわい、多国籍民族の坩堝であるアメリカ合衆国社会のミニチュア版といった感じです。

 あまりにも広すぎる船内ならば、シップツアー(船内見学)もままならぬまま夕方を迎え、この航海最初のフォーマルディナーの時間を迎えました。昨年の海外クルーズではタキシード姿を初披露して、お客様からやんやの歓声を頂きましたが、さすがに毎回タキシードだと感激も薄れ、もう誰も振り向いてくれません。ちょっぴり寂しい私です。「そろそろ真剣に紋付袴を買うことを考えようかな」でも体型的には紋付袴が似合うのでしょうが、体型の割には恥ずかしがる性格で、なかなか踏み切ることができないのです。

 夕食後は、コンサートやミュージカル、演奏会、世のギャンブラーが胸ときめかせるカジノなど、夜中までお祭り騒ぎ、派手好きな(?)アメリカ人のハートを掴んだイベントが盛り沢山。夏は午後十時近くならないと暗くならないヨーロッパ、改めて海外にいる実感がわいてきました。翌日はモナコのモンテカルロに着岸します。

■独立してもらおう
 モナコ公国はバチカン市国に次いで世界で二番目に小さい国、国際リゾート地のコートダジュールの東隅にあります。人口はたったの三万人、面積にいたってはわずか一.九五平方qで、これは廣田新聞店の本拠がある市ヶ尾町とほぼ同じ広さ、それでいて独立国家とは驚きです。国営のカジノやモンテカルロラリー、モナコグランプリなどが有名な一大観光国で、その収入のせいか、直接税はありません。「よし、市ヶ尾町に独立してもらって、国営カジノを作ろう。そうすれば税金がなくなって、楽な生活ができる」とイヤミな上司。でも、彼のような無能なギャンブラーは、カジノでの散財は必至、生活はなおさら苦しくなるのではないでしょうか。

 私たち一行は、テンダーボートに乗り込み(ゴールデンプリンセスは巨大すぎて着岸できないので沖合いに投錨)、モンテカルロに上陸。行先はモナコのお隣、フランスのニースとカンヌです。モンテカルロからバスで国境らしくない国境を越えると、すぐにニースに到着。

■目のリゾート?
 ニースは世界のリゾート、世界の社交場として輝かしい歴史をもち、世界中から観光客が訪れます。食料品や花などを露店で商うマルシェ(市場)や、ニース名物のビーチの散策を楽しみました。ご存知の方も多いかと思いますが、ここのビーチは世の殿方にとってかなり刺激的な場所です。なにしろ女性の水着に開放感(?)がある。さすが世界のリゾート地ニースでは「目のリゾート」というオプションが用意されているわけです。「ニースに来てよかった」私は胸をときめかせたのです。ある男性のお客様は「目の毒だ」と目をそむけていましたが、彼は間違いなく恐妻家です。そうでないと言い張るのなら、彼は間違いなく嘘つきです。妻を連れてない、正直者の私は、わが目をカメラに代えて、ニースのビーチの光景をしっかりと焼き付けたのでした。

 出発時間になり、名残惜しく(?)ニースをあとにして、また走ること約一時間、国際映画祭の街カンヌに到着。

 カンヌと言えば「カンヌ映画祭」、毎年五月は映画スターやジャーナリストなどで溢れ、映画祭一色になります。私たちはブラッセリーで昼食を済ませたあと、映画祭の会場を中心に、目抜き通りでショッピングを楽しみました。

■クルーズは合理的な旅
 夕方「ゴールデンプリンセス」はモンテカルロを後にしました。 今回の旅は二週間かけて六ヶ国八ヵ所の観光をしますが、船そのものが巨大なリゾートホテルのようなもので、夜は遅くまで食事やエンターテイメントを楽しめます。 写真 その間船は確実に移動し続けているわけですから、朝目が覚めたら次の魅力的な観光地に着いているという、とても合理的な旅がクルーズなのです。しかし、夕方に船に戻って翌日の八時前には観光に出かけるので、予想以上にハードスケジュールなのです。もっとも、バスや飛行機での移動となると、なおさらめまぐるしく忙しいのではないでしょうか?

 翌日の六時、船はイタリアのリボルノに接岸しました。リボルノは日本の観光客にはあまり馴染みのない街ですが、フィレンツェやピサの外港です。

■さすが本場?
 この日はフィレンツェ市内観光とピサの斜塔の観光に出かけました。
 バスで走ること約四十分でピサに到着。
「ピサ?イタリアは本場だから美味いんだろうな」「それはピザ!」 冗談はさておき、斜塔の街として名高いピサは、ローマ時代に海港として栄えたところで、ガリレオ=ガリレイが医学を学んだピサ大学のある大学都市でもあり、現在も科学と数学の名門として名誉を誇ります。ガリレオ=ガリレイの「落下実験」が行なわれたピサの斜塔を中心に、周辺の洗礼堂やドゥオモ(大聖堂)を見学しました。ところで、洗礼堂やドゥオモも斜塔と同様に地盤沈下の影響で傾いているのです。でも眺めているうちに、傾いているのは自分ではないかという錯覚に見舞われました。

写真  ピサの観光を済ませたあと、バスに揺られること一時間半、フィレンツェ市内の中心部に到着しました。フィレンツェは六月にもかかわらず気温は四十℃。建物が密集しているため風が抜けない状態で、体型的に暑さが苦手な私はここが一番の鬼門となりました。芸術のセンスの欠片もない私ですが、ルネッサンス美術の世界最大の宝庫として有名なウフィッツィ美術館で観賞していただいたあとは、フィレンツェ最高級ホテル「エクセルシオール」にて昼食。午後は貴金属や土産物が立ち並ぶ、街で最古の橋(橋上市場)「ポンテ・ヴエッキオ」や、『花の都』フィレンツェの美しいシンボル「ドゥオモ(花の聖母教会)」など、市内を散策。夕方近くに船に戻りました。翌日はナポリです。

■「腹違い」ではない?
 ナポリはイタリア南部最大の都市です。日本でもおなじみのスパゲッティ、ピザ、ジェラートなどイタリア料理の多くはナポリで誕生しました。また「サンタ・ルチア」や「オー・ソレ・ミオ」など、有名なカンツォーネのほとんどがナポリ民謡です。

 私たちは早速、カプリ島、ソレント、ポンペイ遺跡の観光に出かけました。水中翼船に乗ること四十分、カプリ島の玄関口、マリーナ・グランデに到着しました。ケーブルカーに乗ってカプリ地区を散策、高級ホテルやレストラン、ブティックが軒を連ね、華やかな雰囲気です。

 このカプリ島で同じ船の乗客である年配のアメリカ人夫婦に「中国人?or日本人?」と声をかけられました。「日本人」と答えると、ご主人が「スシ、テンプラ、山手線、新橋、品川、池袋、おばさん…」「??」いきなり片言の日本語を連発してきました。 写真 支離滅裂な日本語とはいえ、なぜそんなに知っているの?実は彼は以前米海軍の仕事に従事していて、横須賀にも住んでいたこともあったそうです。すでに悠々自適の生活らしく、彼はその体型まで悠々自適のようで、そのお腹周りはまさに臨月の妊婦状態。そんな彼がどういうわけか私のことを、気に入ってくれたようで、あげくの果てには「YOU ARE BIG SON」とまで言われる始末。すっかり彼らの息子にされてしまった私が、彼と終日行動を共にしたのは言うまでもありません。

 帰国後、彼ら夫婦とマリーナ・グランデをバックに撮った写真を、同僚たちに見せたところ大爆笑されてました。「確かにこれは親子だな、彼が『臨月』なら、お前は『八ヶ月』というところだな」イヤミな上司が、私の疑問を解いてくれたのです。「じゃあ『腹違い』の親子風?」「いや『腹』も同じだ」「…」

■案外忙しいんです
 カプリ島から再び水中翼船で南イタリア有数のリゾート地ソレントへ向かい、ナポリ湾が一望できるレストランで昼食をとり、午後は伝説の街ポンペイへ向かいました。

 ギリシャの植民都市ポンペイがローマの支配下に入ったのは紀元前八十年。その百六十年後、突然ナポリ近郊のヴェスヴィオ火山が大爆発。激しく流れ出す溶岩に、街は一瞬のうちに飲みつくされ、栄華の都は忽然と世界から消えたのですが、それは単なる古い伝説とされてきました。ところが十六世紀末、分厚い灰の下から千九百年前の姿をリアルにとどめた遺跡が偶然発見され、人々は伝説が真実であったことに驚いたのです。その伝説の都市ポンペイ遺跡を見学し「ゴールデンプリンセス」が着岸しているナポリ港に戻りました。

 再び十八時に出港、翌日はエーゲ海を終日航海します。終日航海の日は基本的に自由時間。四日連続の観光の疲れを癒していただくには最適なスケジュールです。大半の方はお昼までお休みになり、私も例外ではありません。海を眺めつつブランチを楽しんだ後、午後は気持ちを切り替え、現実に戻ってお洗濯。コインランドリーは大混雑、四日分の洗濯が終了したのは夕方の八時でした。船旅は退屈だろうと思われがちですが、退屈だと感じているヒマは案外ないんです。

■パルテノン神殿の悲惨な運命
 ナポリを離れて二日後の朝、ギリシャのアテネの外港ピレウスに着岸しました。
 アテネは人口四百万、古代遺跡と中世の建造物が共存し、アクロポリスをはじめ、歴史的遺産が点在しています。船を降りて観光バスに乗り込み、まずはギリシャのシンボルとして有名なパルテノン神殿が建つ、アクロポリスへ向かいます。

写真  パルテノン神殿は、紀元前五世紀にアテネの黄金時代を築いた大政治家ペリクレスによって工事が着手されました。彫刻やレリーフ、室内には金と象牙でつくられたアテナ女神像などが置かれ、九年後に完成、アテネの絶頂期を象徴するモニュメントとなりました。しかし歴史は非情で、中世にはキリスト教会、トルコ支配時代にはイスラム教モスクに改造され、その後トルコ軍の弾薬庫になるまでに落ちぶれ(?)、一六八七年にはヴェネツィア軍の砲弾が命中し破壊されるに至ります。パルテノン神殿の修復が始まるまで、それから一世紀以上の時を経なければならなかったのです。

■衰えを知らない食欲
 せっかく憧れのギリシャに来たというのに、南国の太陽は私に容赦なく降り注ぎ、おまけに地中海性気候は夏乾燥するのが特徴で、一リットル入の水のボトルがあっという間にスッカラカン。二十sは痩せたような気がするのですが、実際全然痩せない理由はやはり衰えを知らない私の食欲のせい?暑さにめげることなく、ギリシャ料理の昼食を堪能後、午後はアテネの中心地を散策を楽しみ、夕方ゴールデンプリンセスに帰りました。
 翌日はいよいよトルコのクシャダスです。    (つづく)
                                         (森 本)
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