最近ツキに見放されているような気がする。といっても、交通事故で怪我をしたわけではないし、はたまた、健康診断で体の異常が見つかったわけでもなく、相変わらず首から上以外はすこぶる健康である。家庭に不和があるわけでもなく、夫婦喧嘩の頻度は新婚時の水準を保っているし、最近は円熟味を増して、ある種の様式美さえ漂うストレス解消(妻にとっては…だが)の儀式へと昇華しつつあり、ますますもって円満である(かな?)。金運のなさは生まれつきだし、ならば、何をもってツキに見放されていると嘆くのか、原因は実はこの「ひろたりあん通信旅行版」にある。
8月のバスツアーが休みだったため、先月号はお世話係の同乗記の用意がなくて、急遽何の役にも立たない旅行の話を、軽自動車並みの排気量しかない頭を超フル回転させてでっちあげた後、死んだ編集者だが、今月こそはのんびりさせてもらうぞ、と自分で勝手に決めて、のほほ〜んと過ごしてきたのに、今になって今月号に同乗記を掲載する予定だった「上高地ツアー」の実施前に、旅行版の最終締切が立ちはだかっていることに気づいたのだから、間抜けな話である。とはいえ当人にとっては話は深刻で、「オレはなんてツイてないんだ!」と天を仰いだのだが、そんな私を見る同僚たちの視線は当然冷たい。結局、今月もまた七転八倒しているのである。
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このように、人生を演出する要素の一つに「ツキ」がある。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」松尾芭蕉の「奥の細道」を引き合いに出すまでもなく、人生は旅に例えられるのが常だが、人生が旅であるなら、「ツキ」は旅をも演出することになる、と言えば大げさかもしれないが、結果的に「ツイていた旅行」、「ツイてなかった旅行」の区別は可能である。私は、学生時代のユースホステル巡りをはじめ、これまでにいろいろな旅行をしては、思い出を重ねてきたつもりだが、運良く霧の晴れた摩周湖で、カメラのキャップを外さないで写真を撮りまくったり(2度目は霧の摩周湖だった)、ラーメンを食べているうちに終列車に乗り遅れ、冬の駅頭で野宿したり等々「ツイてない旅行」をいくたびか経験している。これらは自分の間抜けさが招いた災いで、間抜けなのが生まれつきのものならば、悔しさの持って行き場がない。「ツイてないなあ」で済ますしかないではないか。
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今回のバスツアーは『奥日光紅葉巡り』であるが、実は、どういうわけか私と日光とは相性が悪く、「特にツイてない日光旅行」を2回も経験しているが、いずれも季節は秋である。
初めての日光行きは学生時代の、アルバイト先の日帰り慰安旅行で、10月10日体育の日のことである。いろは坂から中禅寺湖へ出て昼食後、華厳の滝を観瀑するという、紅葉の奥日光を満喫する王道的コースだったが、オンシーズンの祝日に道路が渋滞しないわけがない。今市の手前からバスが歩き出し、ようやく中禅寺湖畔に着いたのが夕方六時前。そこで昼食とは、何とも馬鹿げているではないか。紅葉の中禅寺湖はすでに闇の中で、もし「これから華厳の滝に向かいます」という案内でもあったら、暴動が起こっていたに違いない。帰路ももちろん渋滞、帰着したときには日付けが変わっていた。
また、5年前には、平日なら大丈夫だろうと友人夫婦と紅葉狩りに出かけたところ、行きの関越道で車が故障してしまい、結局本懐を遂げることはできなかった。
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しかし、こんな私でも紅葉シーズン以外なら、荘厳さの中にも華麗さが広がる日光の自然の醍醐味を味わう、「ツイている旅行」を経験しているのである。水しぶきをあげて垂直に落ちる華厳の滝の、迫力の中に垣間見る妖艶な美しさ。空よりも青い、静かなる中禅寺湖、その後方にそびえる男体山の、名前に反したなだらかで美しいたたずまい。初夏には白い綿のようなワタスゲが湿原一面に広がる戦場ヶ原は、朝ぼらけにはまるで墨絵のような、幽幻なる世界に変わり、この上ない感動を覚えた。
それなのに、これらの美しい自然が、紅葉に染められた艶姿だけが、私の中の日光から欠落していて、座りの悪いものにしているのである。2度もフラれているのにそれでも懲りないのは、秋の日光の感動の予感を、私自身が本能的に感じとっているからかもしれない。「自費で行きたいんですが…」すると、「やめてくれ、お前一人のせいでお客さん全員が『ツイてない旅行』になったらどうする」今月も冷たい上司様。やれやれ、いつになったら私にツキが巡ってくるやら。 |