茶漬飯哲学
一
茶潰飯の美味を感じ得る者は幸福である。
何を食ってもまずい人がある。何を食ってもうまい人がある。前者は不健康を意味し後者は健康を表わす。茶漬飯を美味と感じ得る者は幸福である。
満腹の快味を感じ得る者は幸福である。
半日鍬棒を振り廻して、さて食事時となって味噌汁と漬物で麦飯を六七杯平らげる。腹は文字通り一ばいになる。餓えたる腹の満たされたる一種異様の快味は、恐らくその人でなければ分からない。猛烈に働く者でなければ分からない。健康なる者でなければ分からない。
満腹の快味は人間が孤々の声をこの世に挙げた時、最初に表わるる主なる本能である。嬰児は教えられざるに乳を呑むことと泣くこととを知っている。生まれたるがままの人は本能的快味を知っている。これを知らざるは知らざるに非ず人為がこれをこわすのである。
満腹の快味を感じ得る者は幸福である。
二
あるところに百万長者があった。彼の生活は正しく贅のあらん限りをつくし、宴会は日に日を次いで、美食は欲するがままに卓上に運ばれ、何人も彼の生活を羨望の眼をもって見ぬはなかった。
併し不思議にも彼は自己の生活に全く満足していなかった。彼の健康は十分でなく、彼の食欲はいつも消沈して何を食ってもうまくなかった。彼は遂にこの索莫たる食味に耐えられなくなって医師へ行った。
医師は逐一彼を診察して、その結果薬餌の代りに一つの忠告を進言した。それは、貴下の病気には薬は要らぬ、ただ今後の生活費を一日五十銭とし、而もこの五十銭は自己の労役に依って稼いだものでなければならぬというにあった。
百万長者は唯々としてこれに従わねばならぬような心境にいた。そして間もなくわが手に儲けたる一日五十銭の粗食に美味を感じ得るまで健康を快復した。
百万長者は貧者の生活に身を貶して、初めて真の幸福を知ったのであった。
食べられなくなってはおしまいだと人がよく言う。それは重態に陥入った場合は特別だ
が、しかし普通の健康体の如く見えてしかも食べられない人がいかに多いか。
三
腹が空らないことは現代生活の一大特徴であるらしい。交通機関が発達して歩く必要がなくなり、諸種の器械が進歩して働く必要がなくなり、これを文明の必然なりとして働かざることを文明的なりと信じ、それをえらいと思い、ここに運動と食欲との著しき不調和を来し、種々周囲の事情に対して抵抗力を失い、遂に所謂不健康なる状態を招来するに至るのである。
犬が好きでよく飼う、そしてよく死なれる。それは多くの場合御馳走が過ぎるからなのだという。殆んど決まった食物も与えられないような、さかんに運動して食餌を漁り歩くような犬が、犬として最も健康なのである。
人間の引合に犬を出しては失礼だろうという者があるかも知れぬ。しかし動物生存の原理においてはいささかの相違もない筈である。
四
富と幸福とは必ずしも一緒に歩かない。よく働く者は幸福である。そして茶漬飯を美味と感じ得る者は幸福である。その人は健康だからである。
健康に比肩し得る幸福はこの世に一つもない。
(大正八年二月)
※原文は旧漢字、旧仮名遣いです。一部漢字を仮名書きにしました。一部句点を追加しました。
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